コンサート備忘録(プレトニョフ指揮フィルハーモニア)

2007年11月29日(木)  ロイヤル・フェスティヴァル・ホール

ミハイル・プレトニョフ指揮
ボリス・ギルトバーグ(Pf)
フィルハーモニア管弦楽団

ボロディン 中央アジアの草原にて
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」


もともとは行くつもりの無かったコンサートであるが、東京からロンドンに出張中の方からチケット取得を頼まれ、自分も一緒に行くことにした。美女2名と同行、その時点で◎である(笑)。

ラフマニノフのソロを弾いたのは23歳の若手ピアニスト。ピアノという楽器を「鳴らす」弾き方のように思えた。指使いも時としてハープをかき鳴らすかのよう。鍵盤を叩くことよりも、鍵盤から指を離すことに神経を使っているように見える。

低音にボリューム感があって、底から湧き上がってくるような重心のすわった音がする。反面、高音域ではやや輝きが足りない。オケとはよく噛み合っていた。全般に手堅くまとめていて、地力はしっかりしているが、やや地味であり、もう少し華が欲しいところ。

さて、プレトニョフの新世界である。

極めて作為的な解釈であった。特に第1楽章のテンポはいじりにいじっており、まるで別の曲。冒頭、超スローなテンポで始まり、フルートは通常一息で吹くところを、あまりにも遅いテンポだったので、ケネス・スミスは2度ブレスを取っていた。主部に入ると一転、第1主題は恐ろしく速いテンポで怒涛の驀進。かと思えば、第2主題の手前でがくっとテンポを落とす。テンポの急変にオケがあたふたしながらついて行っている様子は、気の毒にすら思えた。

運命・未完成・新世界、といった「今さら」という曲を演奏するからには、何か違ったものを見せたくなるのはよくわかる。しかし、この解釈はあまりにも奇抜で、音楽の流れが分断されてしまっており、個人的には賛同できない。

我々が固定観念を持ってしまっている曲に、全く違う角度から光をあてて、驚かせてくれる演奏家は凄いと思う。プレトニョフも、こういう解釈を考え付くことができること自体、素晴らしい創造力を持っているのだと思う。問題は、それがいつも成功するとは限らないことであろう。個性的な解釈は興味深いけれど、それが音楽的に説得力を持っていなければ、変わった演奏だね、で終わってしまう。

いつも個性的な解釈で新鮮な驚きを与えてくれ、それがほとんど常に素晴らしい結果につながる演奏家もいる。このあたりは主観の問題なので異論もあろうが、私は、ピアニストではグリゴリー・ソコロフの名を挙げたい。(グールドや指揮者のチェリビダッケ、と言う人は多いだろう。)

片や、あまり突飛な解釈はせず、オーソドックスなアプローチを取りながらも、曲全体の構成を見通した音楽作り、音色の魅力、引き締まった緊張感を通じて感動的な演奏を聞かせる演奏家も多い。例えば、去年だったかハイティンクがロンドン交響楽団でベートーヴェンの交響曲チクルスを振った時、ハイティンクはオーバーなことを何もしないのに、説得力があり、これぞベートーヴェン、という見事な演奏であった。彼が指揮台に立つと、それだけで場の空気が引き締まる。そしてそれは、堅苦しい緊張ではなく、もっと包容力のあるオーラで楽員の集中力を高めているような感じがする。全ての音が確信に満ちている。

...などと書いておきながら言うのもナンであるが、個性的かオーソドックスか、などとタイプ分けをすることには、実はあまり意味は無いと思っている。曲をいじりにいこうがいくまいが、演奏家は演奏を通じて自分の個性を見せていることに変わりは無い。「その演奏家が何を表現したいか」、そして「聴き手がそれをどのように感じるか」、これに尽きる。

プレトニョフの新世界は、彼がやろうとしていることは良くわかったけれど、何故そういう解釈を取らねばならなかったのか、釈然としない。彼は本心から「この曲はかくあるべし」と信じて演奏したのだろうか?

ともあれ、面白い演奏ではあった。気に入るかどうかは別として、新しいものに触れるのは、それはそれで楽しいのである。
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by bibinga | 2007-11-29 23:48 |  

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