オペラ備忘録(ウィーン国立歌劇場 コシ・ファン・トゥッテ)

d0135403_1122313.jpg2008年10月27日(水) 東京文化会館大ホール

ウィーン国立歌劇場
モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」

指揮:リッカルド・ムーティ (Riccardo Muti)
演出:ロベルト・デ・シモーネ (Roberto de Simone)

フィオルディリージ:バルバラ・フリットリ(Barbara Frittoli)
ドラベッラ:アンゲリカ・キルヒシュラーガー(Angelika
Kirchschlager)
グリエルモ:イルデブランド・ダルカンジェロ(Ildebrando D’Arcangelo)
フェランド:ミヒャエル・シャーデ(Michael Schade)
デスピーナ:ラウラ・タトゥレスク(Laura Tatulescu)
ドン・アルフォンソ:ナターレ・デ・カローリス(Natale de Carolis)

ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団


期待どおりの極上の演奏!

よくもこれだけ最高レベルの歌手をずらりと揃えたものだと感心するが、その歌手達が作り上げる音楽に、心底驚嘆した。

ソロが良かったのは当然として、とにかくアンサンブルの美しさが筆舌に尽くしがたい。中でもフリットリとキルヒシュラーガーの繰り広げる女声ニ重唱は圧巻で、そのとろけるような美しい響きは、もう、「天にも昇る心地」とでも言う他無い。


歌手は6人とも素晴らしい出来であったが、中でもフリットリは飛び切り。彼女の声は、天から降ってくるような丸い響きを持っている。滑らかで艶があり、わずかに翳りを帯びているのがまた良い。最初は少し抑え目のように感じたが、1幕第14番「岩のように・・・」あたりから絶好調、2幕第25番のロンド「お願い、許して恋人よ」では、全身鳥肌。「フリッ鳥」になってしまった。

「真の感動は弱音から生まれる」というのが私の持論であるが、フリットリを聴くと、その意を強くする。力強いフォルテも見事だが、弱音に込められた張りのある美しさは一層素晴らしい。フォルテに乗って声高に強調された情念よりも、押し殺してピアノの中に閉じ込められた情念の方が、聴き手の心の中で感動を増幅させるように思えてならない。

キルヒシュラーガーは、透明感があって理知的。歌も演技も、この人は「とっても良い」雰囲気を発散しており、好きにならずにはいられない。ただ、声の質にわずかに潤いに欠ける面があるような気がする。

シャーデの声は密度感があって好みに合う。2幕第27番のカヴァティーナ「不実な心から裏切られて」は特に素晴らしく、こういう心の揺すぶり方はバリトンにはなかなか真似のできないことで、テノールという声域の持つアドバンテージだな、と思わされる。

ダルカンジェロの終始安定して朗朗と響く声はとても豊かで、しかも色気がある。この声で口説かれたら、ドラベッラならずともイチコロであろう。

デスピーナを歌ったタトゥレスクは大歌手達に全く位負けせず、堂々と存在感をアピール。侮れない実力である。コミカルな中にも知性を漂わせる演技であった。

カローリスは性格付けがあまりはっきりせず、やや淡白であったが、落ち着いた声で舞台を引き締めていた。


コシ・ファン・トゥッテとは「女はみんな、こうしたもの」という意味。恋人の貞節を信じる2人の士官フェランドとグリエルモを、老哲学者ドン・アルフォンソが「女性の貞節なんてあり得ない」と挑発。賭けに乗った2人は、別人になりすまして互いの相手を(フェランドがフィオルディリージを、グリエルモがドラベッラを)口説くと、信じていた恋人達はあえなく陥落。士官二人は恋人達の裏切りに絶望し、憤慨する、という(無茶苦茶な)話である。

騙した男達が悪いのか、騙されて浮気した女達が悪いのか、人によって見方はいろいろだろうが、意思決定論的に非常に興味深い要素が幾つか含まれているように思う。

例えば、「無意識」の働き。近年の研究によれば、「無意識」が人間の意思決定に大きな影響を与えているという(ただし、無意識は常に正しい意思決定を導くとは限らない)。

2幕終盤に、フィオルディリージが軍服を着て男達の居る戦場に向かおうとする場面があるが、この時、彼女は「私にはフェランドの軍服がピッタリだわ。ドラベッラはグリエルモのを着ればいいわ。」と、フェランドの軍服を着てしまうのである。

この時点ではフィオルディリージはまだグリエルモに貞節を誓っており、フェランドに口説き落とされるのはこの5分後なのだが、、、、彼女の無意識は既にフェランドを選んでいる。

また、ドラベッラは、「恋人が戦場に行くなんて、別の男を見つけるチャンスじゃありませんか」というデスピーナの意見を、グリエルモに魅かれ始めた自分の気持ちを正当化するために利用しているように見えるが、これは「確証バイアス」が働いていると考えてよいだろう。

確証バイアスとは、「人は何かを信じると、それを裏付ける意見にだけ耳を傾けがちになる」、つまり反対意見を聞かず、自分に都合の良い情報だけを取りたがる、という傾向のことである。

(オレオレ詐欺にかかった人が、銀行員が制止するのを聞かずにお金を振り込んでしまうのも一種の確証バイアスと言えるだろう。「確証バイアス」でインターネット検索するといくらでも解説が出てくるが、例えばこれなどわかりやすい。)


コジのストーリーは、私の解釈では、4人の恋人関係は、元々のペアよりも、取り替えた後のペアの方が本当はしっくりいく。フィオルディリージとドラベッラは、どうやら、そのことに気づいているが、あえてその気持ちは飲み込んで、元の鞘に収まることを選択する「分別のある女性達」だ。

デスピーナは小間使いでありながら、進歩的でインテリジェンスのある女性(老哲学者に釣り合う)。彼女が主張しているのは、浮気の勧めというよりも、女性はもっと主体的に考え行動していいのだ、ということに違いない。(ダ・ポンテがそこまで意識していたかどうかはわからないが、現代からはそのように読み解きたくなる。)

今回の公演では、カーテンコールでフィオルディリージとフェランド、ドラベッラとグリエルモという(取替後の)組み合わせで出てきたり、タトゥレスクの役作りが「知的なデスピーナ」を感じさせたことから、シモーネ演出は、私の解釈に近いのではないかと感じた。(→こういうのを「確証バイアス」という…爆)

最後にムーティの指揮についてであるが、薄っぺらな盛り上げに走ることなく、丁寧で、じっくりと落ち着いた音楽作り。全体が調和し、オケと歌が溶け合って、とても優しい音がしていた。この公演で、誰が一番凄かったかと言えば、やはりムーティかもしれない。

B席(2階横の一番ステージ寄り)を買うにも大枚を必要としたが、これだけ質の高い上演は一生にそう何度も聴けるものではない。金額に見合う価値があったと思う。

ロベルト・デヴェリューについてはまた後日。
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by bibinga | 2008-11-03 23:58 |  

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