カテゴリ:音( 40 )

 

コンサート備忘録(ウィーン国立歌劇場 ロベルト・デヴェリュー)

d0135403_142792.jpg2008年10月31日(金) 東京文化会館大ホール

ウィーン国立歌劇場
ガエターノ・ドニゼッティ 「ロベルト・デヴェリュー」
(演奏会形式)

指揮:フリードリッヒ・ハイダー(Friedrich Haider)
合唱指揮:トーマス・ラング(Thomas Lang)

エリザベッタ:エディタ・グルベローヴァ(Edita Gruberova)
ノッティンガム公爵:ロベルト・フロンターリ(Robert Frontali)
サラ:ナディア・クラステヴァ(Nadia Krasteva)
ロベルト・デヴェリュー:ホセ・ブロス(Jose Bros)
セシル卿:ペーター・イェロシッツ(Peter Jerosits)
グアルティエロ・ローリー卿:甲斐栄次郎
執事:伊地知宏幸
ノッティンガム公爵の親友:マリオ・ステッラー(Mario Steller)

ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団


女王グルベローヴァのためのコンサートと言っても過言ではなかろう。ほとんどの聴衆の目当ては彼女だったろうし、興行側もそれを意識していたはずだ。

確かにグルベローヴァは素晴らしかった。この曲は魔笛のようにHi Fを要求したりはしない曲だが、数回のHi Dは軽々出していたし、あれだけ長く歌った後の最後のEs(かDis)をあそこまでクレッシェンドするとは、恐れ入りました、と頭を下げるしかない。(当日耳で聴いただけで楽譜を確認していないので、音が違っていたらすみません)

満員の聴衆も拍手喝采、彼女の比類なき輝かしい歌声に、惜しみない賞賛を贈っていた。

・・・が、私は彼女の歌には、ちょっと引いてしまう。歌唱技術の素晴らしさを認めるにやぶさかではないが、あまりにも平然と苦も無く歌ってのける(実際は苦も無く、などということはないのだろうが)ので、気持ちを移入できないのだ。芸術というよりは、スポーツ競技のように感じてしまう。

このあたりは良し悪しの問題ではなく、好みの問題だろう。どうやら私は、強い輝きよりも、涙を誘うはかない存在に肩入れしたくなるようだ。ワインの好みにしても、アグネス・ラムのようなカリフォルニアワインよりも、樋口一葉のようなフランスワインが好きだ。(この例えが適切かどうかは、あまり突っ込まないで・・・・)

ま、でも、この怪物歌手の威力は十分に堪能できた。

他の歌手陣では、ホセ・ブロスが圧倒的に良かった。こせこせせずに、大らかで伸びのある歌いっぷり。大いに気に入った。

フロンターリも適度に陰影をつけた歌い方が非常に良かった。「この人にジェルモンを歌わせてみたいな」と思いながら聴いていたが、帰宅して調べたら、果たして、ジェルモンは彼の十八番のようだった。

サラを歌ったクラステヴァは技術的には十分上手いのだが、ちょっと詰まった声質で、聞いていて息苦しくなる。個人的にはこういう声は好みではない。

いただけなかったのは、オケ。演奏会形式なので、オケはピットではなくステージ上に乗った。ウィーンの素晴らしい音を存分に楽しめるだろうと期待していたら、あにはからんや、アンサンブルが粗雑で、音色も精彩を欠いていて、がっくり。焦点の定まらない、寝ぼけた演奏だった。

ウィーン国立歌劇場、ウィーンフィルは、この5年間に、ウィーン、ロンドン、日本で20回以上聴いているが、その中のワースト3に入ると思う。

時差ぼけか、と思ったが、来日してから相当時間が経過しているはずだから、それはあるまい(27日のコジはとても良かったし)。おそらくは練習不足であろう。(さもなくば指揮者のせいか?)

d0135403_104825.jpgこの日の席は3階の最前列。舞台から多少距離はあるものの悪い席ではなく、たぶんB席相当くらいだと思うが、プレミアムエコノミー席という区分で拾い、えらく安く買えた(B席の半額よりずっと安い!)。

投売り価格のチケットが出るとは、さすがのグルベローヴァもそろそろ飽きられたか、と思って行ったら、案に相違して会場は満席。文化会館の前には「チケット買うよ~」としわがれたダミ声を出すダフ屋や、「求むチケット」の札を掲げた人も何人か見受けられた。ホール入り口には「大入」の札が。

なぜ、あんなに安くチケットが買えたのか、今だに不思議である。


ノート
・ この駄洒落、絶対に誰か考えたはずと思って調べたら、やっぱりありました。美味しいものを食
  べ歩くお婆さんたち
、すなわち「グルメ老婆」の会。
・ 調子に乗って、では「雨降りの日に出歩くお婆さんの会」はあるかいな、と思って調べたら、こ
  れは見つかりませんでした。・・・「傘老婆」の会
  (カサロヴァは来年3月に、サントリーホールでカルメン(演奏会形式)を歌う予定です)
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by bibinga | 2008-11-06 01:00 |  

オペラ備忘録(ウィーン国立歌劇場 コシ・ファン・トゥッテ)

d0135403_1122313.jpg2008年10月27日(水) 東京文化会館大ホール

ウィーン国立歌劇場
モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」

指揮:リッカルド・ムーティ (Riccardo Muti)
演出:ロベルト・デ・シモーネ (Roberto de Simone)

フィオルディリージ:バルバラ・フリットリ(Barbara Frittoli)
ドラベッラ:アンゲリカ・キルヒシュラーガー(Angelika
Kirchschlager)
グリエルモ:イルデブランド・ダルカンジェロ(Ildebrando D’Arcangelo)
フェランド:ミヒャエル・シャーデ(Michael Schade)
デスピーナ:ラウラ・タトゥレスク(Laura Tatulescu)
ドン・アルフォンソ:ナターレ・デ・カローリス(Natale de Carolis)

ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団


期待どおりの極上の演奏!

よくもこれだけ最高レベルの歌手をずらりと揃えたものだと感心するが、その歌手達が作り上げる音楽に、心底驚嘆した。

ソロが良かったのは当然として、とにかくアンサンブルの美しさが筆舌に尽くしがたい。中でもフリットリとキルヒシュラーガーの繰り広げる女声ニ重唱は圧巻で、そのとろけるような美しい響きは、もう、「天にも昇る心地」とでも言う他無い。


歌手は6人とも素晴らしい出来であったが、中でもフリットリは飛び切り。彼女の声は、天から降ってくるような丸い響きを持っている。滑らかで艶があり、わずかに翳りを帯びているのがまた良い。最初は少し抑え目のように感じたが、1幕第14番「岩のように・・・」あたりから絶好調、2幕第25番のロンド「お願い、許して恋人よ」では、全身鳥肌。「フリッ鳥」になってしまった。

「真の感動は弱音から生まれる」というのが私の持論であるが、フリットリを聴くと、その意を強くする。力強いフォルテも見事だが、弱音に込められた張りのある美しさは一層素晴らしい。フォルテに乗って声高に強調された情念よりも、押し殺してピアノの中に閉じ込められた情念の方が、聴き手の心の中で感動を増幅させるように思えてならない。

キルヒシュラーガーは、透明感があって理知的。歌も演技も、この人は「とっても良い」雰囲気を発散しており、好きにならずにはいられない。ただ、声の質にわずかに潤いに欠ける面があるような気がする。

シャーデの声は密度感があって好みに合う。2幕第27番のカヴァティーナ「不実な心から裏切られて」は特に素晴らしく、こういう心の揺すぶり方はバリトンにはなかなか真似のできないことで、テノールという声域の持つアドバンテージだな、と思わされる。

ダルカンジェロの終始安定して朗朗と響く声はとても豊かで、しかも色気がある。この声で口説かれたら、ドラベッラならずともイチコロであろう。

デスピーナを歌ったタトゥレスクは大歌手達に全く位負けせず、堂々と存在感をアピール。侮れない実力である。コミカルな中にも知性を漂わせる演技であった。

カローリスは性格付けがあまりはっきりせず、やや淡白であったが、落ち着いた声で舞台を引き締めていた。


コシ・ファン・トゥッテとは「女はみんな、こうしたもの」という意味。恋人の貞節を信じる2人の士官フェランドとグリエルモを、老哲学者ドン・アルフォンソが「女性の貞節なんてあり得ない」と挑発。賭けに乗った2人は、別人になりすまして互いの相手を(フェランドがフィオルディリージを、グリエルモがドラベッラを)口説くと、信じていた恋人達はあえなく陥落。士官二人は恋人達の裏切りに絶望し、憤慨する、という(無茶苦茶な)話である。

騙した男達が悪いのか、騙されて浮気した女達が悪いのか、人によって見方はいろいろだろうが、意思決定論的に非常に興味深い要素が幾つか含まれているように思う。

例えば、「無意識」の働き。近年の研究によれば、「無意識」が人間の意思決定に大きな影響を与えているという(ただし、無意識は常に正しい意思決定を導くとは限らない)。

2幕終盤に、フィオルディリージが軍服を着て男達の居る戦場に向かおうとする場面があるが、この時、彼女は「私にはフェランドの軍服がピッタリだわ。ドラベッラはグリエルモのを着ればいいわ。」と、フェランドの軍服を着てしまうのである。

この時点ではフィオルディリージはまだグリエルモに貞節を誓っており、フェランドに口説き落とされるのはこの5分後なのだが、、、、彼女の無意識は既にフェランドを選んでいる。

また、ドラベッラは、「恋人が戦場に行くなんて、別の男を見つけるチャンスじゃありませんか」というデスピーナの意見を、グリエルモに魅かれ始めた自分の気持ちを正当化するために利用しているように見えるが、これは「確証バイアス」が働いていると考えてよいだろう。

確証バイアスとは、「人は何かを信じると、それを裏付ける意見にだけ耳を傾けがちになる」、つまり反対意見を聞かず、自分に都合の良い情報だけを取りたがる、という傾向のことである。

(オレオレ詐欺にかかった人が、銀行員が制止するのを聞かずにお金を振り込んでしまうのも一種の確証バイアスと言えるだろう。「確証バイアス」でインターネット検索するといくらでも解説が出てくるが、例えばこれなどわかりやすい。)


コジのストーリーは、私の解釈では、4人の恋人関係は、元々のペアよりも、取り替えた後のペアの方が本当はしっくりいく。フィオルディリージとドラベッラは、どうやら、そのことに気づいているが、あえてその気持ちは飲み込んで、元の鞘に収まることを選択する「分別のある女性達」だ。

デスピーナは小間使いでありながら、進歩的でインテリジェンスのある女性(老哲学者に釣り合う)。彼女が主張しているのは、浮気の勧めというよりも、女性はもっと主体的に考え行動していいのだ、ということに違いない。(ダ・ポンテがそこまで意識していたかどうかはわからないが、現代からはそのように読み解きたくなる。)

今回の公演では、カーテンコールでフィオルディリージとフェランド、ドラベッラとグリエルモという(取替後の)組み合わせで出てきたり、タトゥレスクの役作りが「知的なデスピーナ」を感じさせたことから、シモーネ演出は、私の解釈に近いのではないかと感じた。(→こういうのを「確証バイアス」という…爆)

最後にムーティの指揮についてであるが、薄っぺらな盛り上げに走ることなく、丁寧で、じっくりと落ち着いた音楽作り。全体が調和し、オケと歌が溶け合って、とても優しい音がしていた。この公演で、誰が一番凄かったかと言えば、やはりムーティかもしれない。

B席(2階横の一番ステージ寄り)を買うにも大枚を必要としたが、これだけ質の高い上演は一生にそう何度も聴けるものではない。金額に見合う価値があったと思う。

ロベルト・デヴェリューについてはまた後日。
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by bibinga | 2008-11-03 23:58 |  

コンサート備忘録(アンスネス)

d0135403_102229.jpg2008年10月21日(火) 王子ホール

レイフ・オヴェ・アンスネス(P)

ベートーヴェン ピアノソナタ第13番変ホ長調op.27-1
ベートーヴェン ピアノソナタ第14番嬰ハ短調op.27-2
ドビュッシー  前奏曲集第1巻・第2巻より
          2-1  霧
          1-3  野を渡る風
          1-5  アナカプリの丘
          1-6  雪の上の足あと
          2-3  ヴィーノの門
          1-7  西風の見たもの
          2-5  ヒースの草むら
          1-9  さえぎられたセレナード
          2-10 エジプトの壷
          2-8  オンディーヌ
          2-7  月の光がそそぐテラス

大阪に住む大学時代の友人から電話があり、「東京出張の日にコンサートを聴くつもりだったが、出張日が変わってしまったので、チケットを買い取ってくれないか」と、相談を持ちかけられた。

何のコンサートか尋ねてみると、アンスネスだという。アンスネスのピアノは、今年3月にロンドンで聴いて、いたく感心し、機会があればまた聴きたいと思っていたので、即答でOKした。

今回のプログラムはベートーヴェンとドビュッシー。月光ソナタ以外は、ロンドンで聴いた曲と重複している。ただし、ドビュッシーは、ロンドンでは1巻3,5,6,7,9 2巻1,3,5,7,8,10と番号順に弾いたのに対し、この日は上に書いた順番で弾いた。

アンスネスは、最近日本でも注目を集めているようで、インターネットで検索すれば、たくさん記事を読むことができる。そこにはたいてい、「端正」「理知的」「自然」「磨きぬかれた美しい音色」などと書かれており、全くそのとおりだと思う。

同じようなことをここに書いても仕方がないので、当日、演奏を聴きながら感じた、そのままを書いてみる。荒唐無稽で、意味不明瞭かもしれないが、素人の雑感ということで、お読み捨ていただきたい。

ベートーヴェン ソナタ第13番変ホ長調
 音楽とは、最初の1音に始まって最後の1音に至る、時系列の音のつながりだと思っていたが、
 この演奏を聴いて、その既成概念は覆されてしまった。

 曲は「1本の糸」ではなく、「大きな彫刻のような塊り」で、表面はゴツゴツしていたり、ざらざらし
 ていたり、すべすべしている。

 目の見えない人が彫刻に触ってその全体を感じ取るように、アンスネスは、下から上へ、右から
 左へと、大きな物体の表面をなぞりながら、感じ取ったテクスチャーの違い、色や輝きの違いを
 音として表現しているかのようだ。

 彼の弾くピアノの音の表情や色感は刻々と変化していく。それはあるところで、ふっと変わるのだ
 が、ブツ切りに変わるのではない。彫刻の表面を撫でていく連続的な動作の中で、ここから手触
 りが変わった、色が変わった、そういう感覚だ。そして彫刻の全体は、ソナタという大きなまとまり
 であり、そこに起きていた変化は決して気まぐれではなく、大きな統一感の中に組み込まれてい
 たのだと気づく。

ベートーヴェン ソナタ第14番嬰ハ短調
 いわゆる月光ソナタ。

 多彩な音色を持っているピアニストについて、しばしば、「音のパレット」とか「色彩感」と言った表
 現が使われるが、アンスネスの音色の多様さは、そういうのとは少し違うような気がする。

 言葉で説明するのは難しいが、例えば、開いた窓から入ってくる直接の陽射し、ガラス越しの光、
 レースのカーテンを通した光。あるいは、広角レンズで遠方を大きく捉えるのと、ある1点をズー
 ムアップして捉えることの違い。それらを弾き分けることのできる多彩さと言えばよいだろうか。

 そう、月光ソナタの第1楽章で感じたのは、太陽の光が、朝と日中と夕方とで異なるような、そう
 いう音色の変化である。月の光で言えば、夜9時の月と、深夜0時の月と、午前3時の月では、
 光が違う。そういう移り変わりが、彼のピアノから聞こえてきた。

 第3楽章、これも本当に見事だった。ものすごく速いテンポで、しかしいたずらに興奮することな
 く冷徹に弾くことで、すさまじい緊張感が生まれてくる。張り詰めた板状の音の上に展開するドラ
 マ。見事という他ない演奏、脱帽である。

ドビュッシー 前奏曲集から
 (番号順に弾いたロンドンとの比較で)曲順を組み替えて弾いたのは、意味のある試みだったと
 思う。「西風の見たもの」を頂点とする大きな流れが形成されていた。

 ここでの彼のピアノは、空を羽ばたく鳥の背に乗って、眼下に展開するスペクタクルを、ある時は
 広角に、ある時はぐいっとフォーカスして、映像としてスクリーンに映し出しているかのようだ。

 彼の作り出す音の変化は、ミルフィーユのように幾層もの音の階層を生み出し、それが立体感
 や空間的な拡がりにつながっていく。そして、音のスピード感の変化が、あたかも聴き手自身が
 歩いたり、空を滑空したりしているような、そういう感覚をもたらす。


彼の演奏は、非常に面白く、聴いていて飽きるということが全く無い。ある時は彫刻の手触りのように、ある時は物語を語るように、ある時はヴィジュアルに、ある時は動きを伴って、五感の全てに働きかけてくる。どの瞬間にも新鮮な驚きがあり、次は何が聞こえてくるんだろう、とわくわくする。

その多様な変化は奇をてらったものでは決してなく、ごく自然な流れの中で起きていく。そして一つ一つの響きは異なる表情を見せながらも、単発の思いつきではなく、一貫性を感じさせる。

ピアノなんて聴いたことの無い、小さな子供であっても、彼の演奏には目を輝かせて聴き入るのではないか、そう思うほど素敵で素晴らしい演奏だった。

ノート
・ アンコールは3曲。スカルラッティのソナタニ長調(K492/L14)、嬰ハ短調(K247/L256)とヤナー
  チェク「霧の中で」の第3曲。(スカルラッティのソナタはたくさんあるので、番号を探し当てるのに
  HMVのサイトで1時間ほど試聴に没頭してしまった)
・ ロンドンでのコンサートの様子はブログに書かなかったが、ロンドンの椿姫さんのブログ(素晴ら
  しいブログです!)に詳しいので、ご興味のある向きはそちらを参照されたい。
         
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by bibinga | 2008-10-26 13:29 |  

オペラ備忘録(ローザンヌ歌劇場・カルメン)

d0135403_22583243.jpg2008年10月15日(水) 東京文化会館大ホール

ローザンヌ歌劇場
ジョルジュ・ビゼー 「カルメン」

指揮:シリル・ディーデリッヒ (Cyril Diederich)
演出:アルノー・ベルナール (Arnaud Bernard)


カルメン:ベアトリス・ユリア=モンゾン (Beatrice Uria-Monzon)
ドン・ホセ:ルーベンス・ペリッツァーリ(Rubens Pelizzari)
エスカミーリョ:ミコワイ・ザラシンスキ (Mikolaj Zalasinski)
ミカエラ:ブリギッテ・フール (Brigitte Hool)
フラスキータ:ソフィ・グラーフ (Sophie Graf)
メルセデス:カリーヌ・セシェ (Carine Sechaye)
ダンカイロ:マルク・マズイル (Marc Mazuir)
レメンダード:アンベルト・エルブ=ピノ (Humberto Ayerbe-Pino)
スニガ:ブノワ・カプト (Benoir Capt)
モラーレス:サシャ・ミション (Sacha Michon)

ローザンヌ室内管弦楽団、ローザンヌ歌劇場合唱団、ルードラ・ベシャール・バレエ学校


会場は大入満員。別の日の東京公演は、とある筋でチケットが半額に値下げされていたことから推察して、売れ行きが相当悪かったようだが、この日は都民劇場の会員向け公演だったためだろう、空席はほとんど無かった。これだけ埋まると、演奏する側も気合いが入るに違いない。

前奏曲が鳴ったとたん、オケの音にハッとした。これはまさしく、フランス語圏のオケの音だ。明るくて、ふわりと軽い。

これまで、カルメンは英国ロイヤルオペラとベルリン国立歌劇場でしか観たことがなく、DVDもクライバー/ウィーンを見慣れてしまっているので、「ガンガンに鳴る前奏曲」が脳裏に擦り込まれていたが、なるほど、フランス物の響きはこうなんだな、と納得。このオケの音は終始魅力的で、管楽器が上手く、特にフルートの音色は惚れ惚れとする美しさだった。

さて、歌手。カルメンを歌ったユリア=モンゾン、この人の声は、ちょっと地味めではあるが(メゾなので・・・)、深みと弾力のある素晴らしい声だ。表情付けも緩急自在、役が手の内に入っている。コントロールがしっかりしており、音量・テンポを大胆に変えても、揺らぐことがない。ブレスが少し目立つ箇所もあったが、息が長く、フレーズが持続する。この日の歌手陣の中で断トツであった。

次に良かったのは、ミカエラを歌ったブリギッテ・フール。ミカエラにしては、ドラマティックに仕立てすぎた感もあるが、声量があり、良く伸びていた。3幕のアリアは満場を聞き入らせるだけの存在感があった。

女性2人に比べて、男性2人はちょいと見劣りがした。ホセのペリッツァーリは、ゆったり歌う場面では声が出ていたが、切迫してくるとストンと落ちてしまう。支える馬力が無い感じ。2幕の「花の歌」は無味乾燥で訴えてくるものが無く、がっかり。ただし、尻上がりに調子が出てきて、最後、カルメンに「捨てないでくれ」とすがる場面の熱唱で何とか体面を保った。

エスカミーリョのザラシンスキは、声量はあるのだが、歌も演技も野暮ったい。闘牛士が安っぽい芸人のように見えてしまっては興醒めである。

演出上興味深かったのは、4幕の前半。闘牛士の行進の場面が屋外ではなく、カルメンの泊まっている宿の室内という舞台設定になっていた。行進の一行は舞台には現れず、窓越しに行進の音だけが聞こえてくる。部屋には寝具の乱れたダブルベッドが置いてあり、ここが2人の愛の巣になっていることが窺われる(既にこういう関係にまで進んでいるわけね・・・)。エスカミーリョが部屋に入ってきて、カルメンをしかと抱きしめてから、闘牛場に向かう。

外では群集が花形闘牛士エスカミーリョの登場にやんやの喝采を送っているのに、当の本人は宿の部屋の中でカルメンといちゃいちゃ。「あんた、そんなことやってる場合かいな、早よ行きぃな!」と言いたくなってしまったが、着眼としては面白い。フラスキータとメルセデスが窓から外を見てホセを発見する、というのはうまい処理だ。

全体に小気味良いテンポでサクサク進行し、「軽めのカルメン」であった。感銘を受けるというには至らなかったが、とても楽しむことができ、大いに満足して家路についた。欧州のオペラハウスと比べると、東京文化会館は会場として何とも味気ないが、そうは言ってもオペラはオペラ、これだけのものを日本で観られるというのはまずもってありがたいことである。

ノート
・ 本公演は当初、マリーナ・ドマシェンコが歌う予定であったが、病気で来日できなくなり、ユリア
  =モンゾンに変わった。帰国後初めて見るオペラでいきなり主役のキャストチェンジに見舞わ
  れるとは、「キャンセルを呼ぶ男」の本領発揮である。
・ とはいえ、ユリア=モンゾンが素晴らしかったので、特に不満はない。ドマシェンコのカルメンは、
  ベルリンで聴いているので、むしろ変わって良かったかも。
・ キャンセルと言えば、ロンドンで聴いた最後のコンサート、出国前日3月19日のロイヤル・フィル
  では、ガッティの指揮を楽しみに買ったのに、指揮者が変わってしまったのだった・・・。(あの
  日、終演後にRFHそばのレストランで「最後の最後の送別会」を催してくださったAKさんとMK
  さん、こんなところでナンですが、本当にありがとうございました)
・ 都民劇場は5公演をセットで購入するシステム。仕事で行けなくなるリスクがあるので、前もっ
  て券を買うことにはためらいがあるが、無理やりにでも予定を入れていかないと全く聴きに行か
  なくなるので、えいやで買ってしまった。ちなみに今期の残りの公演予定は、エヴァ・メイ&シ
  ラクーザ、ツィメルマン&チョン・ミョンフン/東フィル、ゲルギエフ/LSO、ブレハッチと、心を
  くすぐられるセレクションである。
・ 会場が東京文化会館というのも、埼玉在住の私にとっては帰りが楽で助かる。何しろ、仕事が
  遅くなったフリをして、家内に内緒でこっそり聞いて帰るので、終演後は一刻も早く帰宅すべく
  猛ダッシュなのである。上野からだと50分で帰り着ける。
・ 都民劇場は、寛容にも、埼玉県民である私を快く入会させてくれた。(特別扱いではなく、都民
  以外でも入会できる旨、パンフレットに書いてあります)
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by bibinga | 2008-10-19 22:56 |  

コンサート備忘録(ゲルギエフ指揮ウィーン・フィル)

d0135403_1314468.jpg
2008年2月22日(金) バービカン・センター

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ベルリオーズ 「ロメオとジュリエット」抜粋
ワーグナー  「トリスタンとイゾルデ」前奏曲
         と愛の死
ドビュッシー  「海」


ウィーンフィルのフランス物、という不思議なものを聞いてしまった。

ベルリオーズもドビュッシーも、フランス物特有の「香り」や「空間的な拡がり」は感じられず、もっとずっしりとした演奏だった。ザッハトルテやナッツの焼き菓子のように中身がぎっしりつまった重たいケーキのようである。ベルリオーズの演奏は、どことなくブラームスの響きを持っていたし、ドビュッシーは、海は海でも「海の底」、ムソルグスキーのようだった。

ワーグナーの演奏には、さすがに「らしさ」があり、特に前奏曲が素晴らしかった。ただ、愛の死はテンポが速めで、さくさくと進み、あっさり終わってしまった。(これはゲルギエフの問題であろう)

ウィーンフィルというのは、面白いオケだ。世間では、ベルリンフィルと双璧、と評されるが、技術力で見たら、他にも上手いオケはたくさんある。

しかし、このオケは「ウィーンフィルにしかできない凄いこと」をやってのける力を持っている。

ツボにはまると、底なしに巨大なエネルギーを出せる。表面的な波ではなく、大きくうねる海のように、圧倒的なボリューム感を持った音を出せる。ものすごく深いところからエネルギーがこんこんと湧き上がってきて、無限にエネルギーを増大させ得る感じ。今日は、トリスタンの前奏曲で、一瞬、こういう場面があった。

また、全員の呼吸が完璧に合い、信じ難いほどの鋭い切れ味で音楽を抉り出す力もある。音を合わせに行くのではなく、一人ひとりの奏者が自律的に弾ききって、その結果がどんぴしゃりと合っているということだろうか。こういう時、聴いていて思わず息が止まるほどの緊張感が演奏に生まれている。ロメオとジュリエットの終曲に、これが見られた。

ウィーンフィルのこうした力は、「気」のようなものではないか、と思えてならない。「気」によって個々のプレイヤーのエネルギーが統合され、「場のエネルギー」となって放射されているのではないかと思うのだ。こういう「気」を感じるオケは、ウィーンフィルの他にはちょっと思い当たらない。

ウィーンフィルは、いつもいつも凄い演奏をするとは限らない。骨太の音を出すちょっと上手なオケ、程度の印象の時もある。しかし、運良く「気」の入った演奏に当たった時、彼らの演奏は、特別な力を持って迫ってくる。

今日の演奏は、オケの個性と曲がミスマッチだった感は否めず、全般的にはあまりぱっとしなかったが、ところどころで「キラリと光る」ウィーンフィルを見せてくれた。ウィーンフィルの「海」を聴けるチャンスはそれほど多くないかも知れず、貴重な経験として肯定的に捉えよう。
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by bibinga | 2008-02-22 23:12 |  

オペラ備忘録(英国ロイヤルオペラ、サロメ)

d0135403_8125232.jpg2008年2月21日(木) 英国ロイヤル・オペラ

リヒャルト・シュトラウス 「サロメ」 (新演出)

指揮:フィリップ・ジョルダン (Philippe Jordan)
演出:デイヴィド・マクヴィカー (David McVicar)

サロメ:ナージャ・ミヒャエル (Nadja Michael)
ヨハナーン:ミヒャエル・ヴォレ(Michael Volle)
ヘロデ:ロビン・レガット (Robin Leggate)
ヘロディアス:ミヒャエラ・シュスター (Michaela Schuster)
ナラボート:ヨーゼフ・カイザー (Joseph Kaiser)


強烈な舞台だった。オペラ自体が陰惨でショッキングなストーリーであるところに、緊張感に満ちた隙の無い演出、歌手の放射するエネルギー、R.シュトラウスの音楽の妖気、これらが相俟って、そのあまりの強いインパクトに、眩暈がするようだった。

タイトルロールを歌ったナージャ・ミヒャエルの存在感がとにかく凄い。この役をこなすのは相当難しいと思うが、ナージャはオーケストラの大音量に負けない張りのある声を持ち、そして声の質を場面によって大きく変化させ、甘い声から憤怒まで、非常に幅の広い表現を見せた。もともとメゾだったからか、華やかというよりは暗めの声だが、密度のある良い声だと思う。

仕草や顔の表情がまた素晴らしい。目の輝きが並大抵ではない。ヨハナーンに魅かれていく表情には、少女のあどけなさ、王女としての品格、そして狂気が同時に表現されており、この複雑な性格を、よくもここまで見事に演じたものだと感心した。また、ヘロデにダンスを請われる前、サロメが床に座ったまま動かない場面があったが、そのじっと座っているだけの姿が、演技になっている!

他の歌手もそれぞれに見事だった。ヨーゼフ・カイザー(ナラボート)は明瞭で伸びがあり、ミヒャエラ・シュスター(ヘロディアス)はなめらかで艶のある声。ロビン・レガット(ヘロデ)はやや軽かったが、サロメの無理な要求にうろたえる心理をよく表現していた。ヘロデにしては悪さが少し足りなかったか。特に良かったのはヨハナーンを歌ったミヒャエル・ヴォレ。芯の太い立派な声だ。もう少し感情の起伏を殺して歌う方がヨハナーンのイメージに合うような気もするが、ナージャとがっぷり四つの存在感は見応え・聴き応えがあった。

指揮のジョルダンは絶好調。4管編成の大オーケストラも気合いの入った鳴りっぷりであった。オケピットの真ん前で聞いたこともあって、音の洪水に圧倒された。Rシュトラウスはただものではない、と思い知らされる。

演出は好き嫌いが分かれるかもしれないが、私は気に入った。舞台を上下に使い、上階ではタキシード姿のヘロデ、イブニングドレス姿のヘロディアスが頽廃した享楽にふけっている。一方、無機質な下階には軍人が詰めている。コントラストがはっきりしていて、凝縮感のある舞台だ。
人物の配置や動きが良い。上下階を結ぶ階段を使った縦の動きが変化を生んで効果的である。

7つのヴェールの踊りの演出も斬新だった。ここでサロメが見せたのは、ヘロデを魅了する官能的な踊りではない。獲物を狩るような昂揚または狂気の踊りだ。(※ 後に目にした解説によると、背景に映した影絵で、ヘロデがサロメを無理矢理蹂躙したことを表した由。気づかなかった、うーむ不覚。)

この新演出は成功だと思う。ただ、これは「打ちのめされる」舞台であって、リバイバルで何度も見たくなるような演出ではないような気がする。(オペラ自体の陰惨さのせいかもしれないが・・・)。また、ナージャやヴォレの存在感があったからこそ、この演出の素晴らしさが活きたようにも思う。

もう日本にお帰りになった方だが、私が敬服する某オペラ愛好家は、バーバラ・フリットリとナージャ・ミヒャエルを特に気に入っていて、ナージャを追いかけて、しょっちゅうロンドンから大陸に飛んでいた。今日のサロメを聴いて、なるほど惚れるわけだ、と納得が行った。彼がこのサロメを見たら、何とコメントするだろうか、ちょっと気になるところではある。

サロメは3月6日にもう一度見るが、3月に帰国する私にとって、それがロンドンでのオペラの見納めになる。最後のオペラがこのような素晴らしいものになって嬉しい。帰国後、10月にウィーン国立歌劇場の日本公演があり、dognorahさん絶賛のムーティ指揮、バーバラ・フリットリ&キルヒシュラーガーの「コシ・ファン・トゥッテ」が上演されるので是が非でも行きたいところだが、6万5千円という値段に気持ちが萎える。一向につながらない電話予約に立ち向かう気力も湧きそうにない。

この4年間、大好きな音楽を存分に楽しむことができた。が、夢は終わった。日本に帰ったら、もうオペラに行くことも、コンサートに行くことも、楽器を吹くことも、できなくなるだろう。環境がまるで違うのだ。職場と家を往復するだけの無味乾燥な毎日を想像して、どんよりと気分が重たくなってしまった。
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by bibinga | 2008-02-21 23:11 |  

オペラ備忘録(英国ロイヤルオペラ、魔笛)

ロイヤル・オペラ・ハウス
モーツァルト 「魔笛」
指揮:ロランド・ベール(Roland Böer)
演出:オリジナル/デイヴィド・マクヴィカー(David McVicar)
    リバイバル/リー・ブレイクリー(Lee Blakeley)


d0135403_8342374.jpg2008年1月31日(木) 
タミーノ:クリストフ・シュトレール(Christoph Strehl)
パパゲーノ:サイモン・キーンリーサイド(Simon Keenlyside)
夜の女王:エリカ・ミクローザ(Erika Miklósa)
パミーナ:ゲニア・キューマイアー(Genia Kühmeier)
弁者:トマス・アレン(Thomas Allen)
ザラストロ:スティーヴン・ミリング(Stephen Milling)
パパゲーナ:Kishani Jayasinghe


d0135403_8344979.jpg2008年2月7日(木) 
タミーノ:パヴォル・ブレスリク(Pavol Breslik)
パパゲーノ:クリストファー・モルトマン(Christopher Maltman)
夜の女王:アンナ=クリスティーナ・カポーラ(Anna-Kristiina Kaappola)
パミーナ:ケイト・ロイヤル(kate Royal)
弁者:ロバート・ロイド(Robert Lloyd)
ザラストロ:ハンス=ペーター・ケーニッヒ(Hans-Peter Konig)
パパゲーナ:Kishani Jayasinghe


魔笛の公演をAキャスト、Bキャストで観た。これまでも同じ演目を異なるキャストで見比べたことは何度かあるが、今回の魔笛ほどキャストによる違いがはっきりでたのは珍しい。

歌そのものの力量は、明らかにAキャストが上であった。特にキーンリーサイド(パパゲーノ)、キューマイヤー(パミーナ)が素晴らしく、ミクローザ(夜の女王)がハイFをいともたやすく出したのには舌を巻いた。Aキャスト公演は、テンポが小気味良く、歌手の声の質も軽く、非常に軽快なモーツァルトであった。こういうのは個人的には嫌いではない。

ミクローザ(夜の女王)の声はとてもきれいで、完璧なコロラトゥーラを聴かせてくれたが、情念はあまり感じられなかった。娘を攫われた母の悲しみが伝わってこず、ザラストロとの敵対関係だけが強調されていたように感じた。トマス・アレン(弁者)、スティーヴン・ミリング(ザラストロ)とも、これらの役にしては声が明るく、音域も高い。トマス・アレンは一番低い音が出ていなかった。

シュトレール(タミーノ)、キューマイヤー(パミーナ)は両者とも素直な声が良く伸びて、軽快で明るめの全体の雰囲気に良くマッチしていた。キーンリーサイド(パパゲーノ)はコミカルな演技力で観衆を魅了。そのあまりの声の良さが、逆にパパゲーノのキャラクターにはミスマッチとも思えるほどであった。Kishani Jayasinghe(パパゲーナ)は声量はそれほど大きくないが、声の質が美しく良く通る声で非常に好感を持った。


一方、Bキャストは、Aキャストが軽快で乗りのよい歌手が揃っていたのとは対照的に、ややごつごつして不器用な歌手たちだった。特にモルトマンやケイト・ロイヤルは、さくさくと歌うよりも、じっくり歌う方が持ち味が活きるような気がする。実際、Bキャストでは、歌手が指揮者の早いテンポに抵抗し、少しずつ引っ張って歌っていた。1幕は今一つ調子の上がらない歌手が多かったが、2幕は皆乗ってきて、演技にも熱がこもり、見ごたえのある仕上がりだった。

特筆すべきは、ハンス=ペーター・ケーニッヒ(ザラストロ)。Aキャストのミリングはザラストロにしては明るすぎたが、ケーニッヒは「これぞザラさま」という堂々たる声を聴かせてくれた。これにはちょっと痺れた。これがBキャストのピカイチ。あとは、Aキャスト比では3人の童子が良かった。(Aキャストの童子はかなりいただけなかった)

声が美しく軽快なAキャスト、情感あふれる歌唱と演技で見ごたえのあったBキャスト、この違いを面白く観た。演出は思わせぶりなところがなく、宗教色も薄くてさっぱりしていた。パパゲーノに存在感があった。

魔笛は、自分自身、オーケストラの一員として上演に参加したことがあり、思い入れの深いオペラである。何よりも音楽が本当に美しい。歌自体はさほど高度な技術の無い歌手でも歌えるからなのか、あるいは派手なアリアが少ないからなのか、キャストに恵まれない公演が多いような気がするが、今回のロイヤルオペラは、A・Bとも歌手陣が充実していたと思う。やはり美しい音楽を良い歌手で聴けるに越したことは無い。

シュトゥットガルトで観たコンヴィチュニー演出、チューリヒで観たクシェイ演出に比べると、ごくごくオーソドックスな魔笛であったが、歌手の良さもあり、A・Bとも満足できた公演であった。

※ Aキャストについて、dognorahさんが充実した記事をお書きになっていらっしゃいますので、ご覧ください。(観た公演日は違いますが、私もdognorahさんのAキャスト評にほぼ同感です)
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by bibinga | 2008-02-14 23:59 |  

コンサート備忘録(エマール / メシアン 幼子イエスに注ぐ20のまなざし)

d0135403_93734.jpg2月13日(水) クイーン・エリザベス・ホール

(P)ピエール=ロラン・エマール
メシアン「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」


                     
                総立ちの会場→




凄かった。 これは音楽の演奏というものを超越した何かだ。 人生における「体験」とでも言うべきものだ。

何がどのように凄かったのか、その内容を書かねばその凄さは伝えられない。しかし、それを表現できる言葉を私は持っていないし、表現したいという気持ちにすらならない。幸運にも会場に居合わせることのできた人は、この演奏を言葉に置き換えることの虚しさを、きっとわかってくれるだろう。

音楽にできること、ピアノに表現できることの、全てがそこにあった。

今日の演奏が楽しかったか、と言われると複雑である。楽しむという、そういう軽いものでは無い。魂が揺さぶられ、心の奥深くが稲妻に打たれて焼け焦げたような、根源的な衝撃である。演奏とは「音楽の喜びを共有すること」だと思っていたが、エマールのピアノは全く違う次元での演奏の在り方を見せてくれた。

メシアンのこの曲は、古今東西の星の数ほどあるピアノ曲の中にあって、燦然と輝く究極の作品の一つだと思う。第1曲、和音の連続というシンプルな構成がなんと多くのイメージを聴き手に想起させるのだろう。時間、空間の概念が消え去り、ただ「祈り」だけが存在しているようだ。第6曲、飽和的な内容の濃さ。第10曲、理性の壁が崩れ、脳内に快楽ホルモンが溢れ出る。第15曲のやすらぎ、そして第20曲では聴き手の魂は宇宙に連れ出され、地球に衝突する流れ星を見下ろしながら、神の声を聞く。ミシェル・ベロフも言っていたが、この曲を全曲通して聴くと、人間が変わる。「浄化」と言えばよいだろうか。

この曲の全曲演奏は、今までに生で4回(ベロフ、児玉桃、木村かをり、オズボーン)聴いており、今回で5回目である。過去の演奏では、ベロフと児玉桃の演奏に強烈な感銘を受けたが、今日のエマールの演奏は、それらをもはるかに凌ぐ、畏怖を覚えるほどの演奏だった。普通のピアニストにとってはこの大曲を弾き通すだけで、大きなチャレンジだろう。しかし、エマールは、この難曲に負けずに主体的に音楽を構築できるだけの極めて優れた技術を有していた。この曲がこれほど美しく音楽的に弾けるものだとは思っていなかった。千変万化の音色、彼の音のパレットは驚異的だ。そして信じ難いほどのパワーと集中力。渾身のエネルギーを込めて最大限の音楽の力を引き出していた。それは力んでいるとか、熱くなっている、ということとは全く違う、「真に強い力」である。

自分がもしピアニストだったら、今日のエマールの演奏を聴いたら、ピアニストを辞めたくなったかもしれない。それほどに圧倒的であった。今までに聴いたピアノ演奏のベストと言い切っても良いと思う。生涯忘れえぬ、すさまじい演奏であった。スタンディング・オベーションはロンドンではしばしば見られるが、演奏が終わるや否や、会場の一人残らず総立ちになった演奏会というのは初めてであった。この演奏との出会いを、ただただ感謝するばかりである。
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by bibinga | 2008-02-13 23:57 |  

アンジェラ・ヒューイット補足

1月20日に聴いたアンジェラ・ヒューイットのバッハ平均律が素晴らしかったことは日記に書いた

さっき知ったのだが、このリサイタルの前日、アンジェラのお母さんが亡くなったのだそうだ。

 ・ 母親の死の翌日、リサイタルをキャンセルせずに3000人近い聴衆の前でピアノを弾く、
   そのプロフェッショナル魂。
 ・ そのようなショックの真っ只中にいることを全く感じさせない、集中力のある演奏。
 ・ 満場の拍手喝采に応えての笑顔。

頭が下がる。本物のプロフェッショナルの凄さに感服した。

(この情報は、ある記事で読んだものであり、裏付けを取っていません。万一間違っておりましたら、お許しください)
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by bibinga | 2008-01-28 00:37 |  

コンサート備忘録(ヤノフスキー指揮スイス・ロマンド管弦楽団)

d0135403_82641.jpg2008年1月27日(日) バービカン・センター

マレク・ヤノフスキー指揮
ニコライ・ルガンスキー(P)
スイス・ロマンド管弦楽団

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番ハ長調
ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調



六本木と言えばアマンド、スイスと言えばスイス・ロマンド。
肩こりと言えばアンメルツ、スイス・ロマンドと言えばアンセルメ。

LP時代からのクラシックファンなら、「アンセルメ&スイス・ロマンド管弦楽団」という名前は強烈に記憶に残っているはずだ。しかし、近年、スイス・ロマンドという名をとんと聞かなくなり、存在を忘れかけていた。正直、「まだ、あったのか・・・」と思ってしまった。プログラムがブル5で無ければ、マイナーになってしまったこの楽団を聴くために日曜の夜にバービカンまで出かけていくことはしなかっただろう。

チケット代が安い。外来オケなのに、ロンドンを拠点とするロンドン交響楽団やフィルハーモニア管弦楽団よりも安いのだ。団員と楽器を飛行機で運んで、ホテル代もかかるだろうに、こんなことで採算が合うのだろうかと、他人事ながら心配になってしまう。これって、つまりこれほど安くしなければ客が入らないということだろう。往時の名門オケもすっかり落ちぶれ、これでは大した演奏は期待できないな、と思っていた・・・。しかし、この期待は、良い方向に裏切られることとなる。

前プロはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番ハ長調。

ソリストはルガンスキー、1994年のチャイコフスキー・コンクール優勝者だ。スケールが大きく、力のある骨太のピアノ。指が非常に良く回り、音楽をはっきりとしゃべっている。(「はっきりしゃべる」ことは演奏において非常に重要なことだと常々考えている)

色の変化はあまり無い。まばゆい白い光。その光が強くなったり、弱くなったりという変化はあるが、赤・青・黄色に色を変えることは無い、という印象である。結果的にそうだったのか、意識的にそうしようとしたのかは不明だが、この音色が、ハ長調という調性にマッチしていたのは確かだ。

個人的には、モーツァルトはもっとデリカシーを持って弾いて欲しいと思うが、まあ、それは趣味の問題だろう。オケは予想に反して、なかなか上手い。俄然、後半が楽しみになってくる。

メインはブルックナーの5番。

不思議なことに、ロンドンではブルックナーが演奏される機会は少ない。せいぜい、外来オケがプロムス(夏の音楽祭)で取り上げるくらい。在ロンドンのオケが取り上げることは滅多になく、5大オケ全部合わせても年に1度あるかどうかだろう。そのような中、直近1年は、コンセルトヘボウの3番・8番、ウィーンフィルの4番、そして今回のスイス・ロマンドの5番と、ブルックナーの当たり年だった(外来オケばかりだが)。

マレク・ヤノフスキーの振るブル5は、2年前に1度聴いている。といっても、ロンドンではなく、ベルリンにてベルリン放送交響楽団で聴いた。(いくら物好きの私でもベルリン放響を聴くだけのためにベルリンまで出かけるわけはなく、この時は、昼にベルリンフィル、夜にベルリン放響のダブルヘッダーだった。しかも会場も同じフィルハーモニーザール。ベルリンフィルではハイティンクのドタキャンに見舞われ、アラン・ギルバートのベルリンフィル・デビューを聞かされるはめになったが…)

その時のヤノフスキーの印象がとても良かったので、スイス・ロマンドの実力に懸念は抱きつつも、多少は期待する部分もあった。実際はどうだったかといえば、、、

スイス・ロマンドは在ロンドンのオケより、上手い! ロンドン交響楽団にしても、フィルハーモニア管弦楽団にしても、演奏会の回数が多すぎるのか、彼らの演奏はどこかくたびれていて、角が崩れているような気がする。たまに巨匠が振るとぐっと引き締まった素晴らしい演奏をするので、能力は高いはず。普段は疲れているか、やる気がないか、手抜きしているか、のどれかとしか思えない。彼らより、今日のスイス・ロマンドの方がずっと上だ。(もっとも、スイス・ロマンドも演奏旅行だからこそ気合いが入ったのであって、本拠地のジュネーヴでは同じようにヘタっているのかもしれないが…)

スイス・ロマンドの音は、明るくて、音に輝きがある。重すぎず、良い意味での中庸の軽さを持っている。音色の傾向としては、ベルリンフィルに近いと言えなくもない。

トゥッティではエネルギーを湛えた張りのある音が素晴らしい。「内転筋の引き締まった太もも」を思わせる。(ほんとか?) 響きの薄い箇所、テンポの遅い部分で緊張感が切れそうになる危うさもあったが、全体として、音色的にもアンサンブルの精度も、かなりのレベルにある。弦楽器が朗々と鳴って気持ち良い。管はパートによって若干バラツキがあるが、ラッパとフルートが上手い。

ヤノフスキーの指揮は、大きな構造を把握し、音楽の流れを大切にしながら、効果的にクライマックスを作っていく。場面転換が明確で、しかもそのつなぎが自然である。テンポ、ダイナミクスがきっちり計算されていて、それが実際の音に表れるよう、オケをグリップし、コントロールしている。息の長いクレッシェンドは特に見事。「ご利用は計画的に」をきちんと守っているからこそ、これができる。

どの楽章も素晴らしかったが、大きなフレーズの中で迫り来るうねりを見せた第2楽章と、絢爛たる音の大伽藍が3次元的に聳え立って見えた第4楽章が、とりわけ良かった。

それにしてもブル5は、内容の濃い曲である。聴き終わって頭の芯がびりびりと痺れるような疲れを覚えた。

終演は10時近く、家に着いたのは11時前であったが、こういう熱演を聴いた後はクールダウンしないと眠れない。まず風呂に入って、それから夕食と晩酌である。お好み焼きを作ろうかと思ったが、深夜に食べるにしてはカロリーが高すぎると思い直し、ワインのつまみ程度の軽い食事にとどめる。(おお、めずらしく自制心が働いた!)

どういうワインを選んだかは、、、、、、このブログの読者なら察しがつくであろう。

d0135403_8241660.jpg

Gevrey-Chambertin Cherbaudes 2004 (Domaine Fourrier)











そう、ブル5の後は、ブルゴーニュ。
(すぐ上にブル5というヒントもあり、この展開は簡単に読めたでしょう?)

ブルゴーニュはジュヴレ=シャンベルタン村の1級畑、シェルボードである。この畑はマジ=シャンベルタン(特級)のすぐ下、シャペル=シャンベルタン(特級)の並びにある良い畑だ。

フーリエは、ロンドン1のワインマニアだと私が信じるM氏のお気に入りの生産者である。フーリエの真骨頂はグリオット=シャンベルタンやクロ・サンジャックにあるのだが、この2つは生産量が少ないため、M氏のような本気モードの愛好家が争奪戦を展開し、瞬間蒸発してしまう。それに比べてシェルボードはお気楽銘柄なので入手は容易、価格もこなれている。私のような「ほどほどのワイン飲み」には丁度良い。

パワーがありながらも優しいワインだ。紫、赤、両方の要素を持っている。気品があって、どこか涼しげ。天候不順の04にしては酸と果実味のバランスが良く、香りも立っている。美しいワインだ。疲れた体にすーっと染みわたり、ゆるゆると精神を溶かしていく。

ワインをゆっくり飲みながら、ナタリー・デセイの日記を書く。デセイの美しい声が頭の中に蘇ってきて、ワインと呼応する。もう1時を回っているが、音量を絞ってデセイの新作CDをかける。2時半、日記を書き終わる。グラスを洗う。3時、こういうゆったりした時間と別れるのは寂しいと思いつつ、寝床に向かう。ああ、明日は月曜日だ…、と思いながら眠りに落ちた。
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by bibinga | 2008-01-27 23:55 |