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コンサート備忘録(ナタリー・デセイ)

d0135403_10191114.jpg2008年1月26日(土) バービカン・センター

ソプラノ)ナタリー・デセイ
エヴェリーノ・ピド指揮
コンチェルト・ケルン

※ デセイの日本語標記について、ドゥセとするのが原語の発音に近いと思われるが、ここでは一般的な標記に従いデセイを使っている。そうしないと、ドビュッシーもドゥビュッスィーと書かねばならなくなってしまうので(笑)。


ドニゼッティ ロベルト・デヴリュー序曲
ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ~ O nube (雲よ)
ベッリーニ  清教徒~O rendetemi la speme(私に希望を返して)

ケルビーニ 交響曲二長調
ヴェルディ リゴレット~Gualtier Malde - Caro nome(慕わしき人の名は)
ヴェルディ 椿姫~第1幕への前奏曲
ヴェルディ 椿姫~E strano - Ah, fors’e lu - Sempre libera(不思議だわ-そはかの人か-花から花へ)

プログラムを知って「おお!」と思わず声が出る。ナタリーで聞きたかった名アリアばかりだ。

しかも、椿姫が入っている。ロイヤルオペラで椿姫を上演中であることは先日来書いているとおりだが、まさにこの日のこの時間、ロイヤルオペラではネトレプコが復活して椿姫を歌っている。このプログラムは「ネトレプコへの挑戦状か?」などと勘ぐってしまう。(実際はそうではなく、新作CDの収録曲どおり、というのが真相のようである)

ナタリー・デセイのCDやDVDは以前から持っているが、初めて生を聴いたのは昨年1月ロイヤルオペラでの「連隊の娘」だった。この時のナタリーの歌と演技があまりに素晴らしく(共演のフローレスも抜群だったが)、すっかり惚れ込んでしまった。ロンドンでは滅多に歌ってくれないので、今日の演奏会を首を長くして待っていた。

1曲目はオケのみ。コンチェルト・ケルンは名の通ったピリオド系アンサンブルである。技術水準はまずまず。ピドの指揮に応えて、乗りの良い演奏。

2曲目、ナタリーが黒のドレスで颯爽と登場。その姿のなんと凛々しくカッコイイことよ!
ところが、ナタリー、オケが演奏を始めているのに咳をしている。体調が悪いのか? 
果たして声はやや詰まり気味で、高音もどことなく苦しそうである。

ベッリーニは少し改善。曲の素晴らしさにも助けられ、プチ感動。
結局、前半は今一つ調子の出ないまま終了。

後半の最初はオケのみのケルビーニ。長くて飽きる。

後半2曲目、ジルダ。ナタリーは、黒のスーツで登場。袖の折り返しの鮮やかなピンクが洒落ている。うーむ、超カッコイイ。ひゅうひゅうっ!(内心叫んだだけで、声は出してません)

前半とはうって変わって声が伸びてきた。いやー、いいんじゃないの、これ。最後のトリル、ひっぱるひっぱる。ずーっとトリルを続けたまま、ステージを降りて楽屋に消えていった。細い糸1本、ピーンと張り詰めているようだ。ppだが、2階席まで信じられないくらい明瞭に届いてくる。ブラヴァ!!
(何をとち狂ったか、今日のコンサート、サークル席を買ってしまっていた・・・。でも、結果的には全く問題なし。この人の声はものすごく良く通る)

d0135403_10201820.jpgトリはいよいよトラヴィアータ。ロイヤルオペラで14日にネトレプコ、17・23日にヤオで聴いているだけに、比較が楽しみである。

(23日のヤオの歌いぶりは日記には書かなかったが、17日をはるかに上回り、素晴らしい出来であった。この人のヴィオレッタ、今後相当人気が出るのではないか? 右はヤオの23日のショット)


ナタリーのトラヴィアータは、ネトレプコともヤオとも全く異なっている。「至芸」というに相応しい。歌も身振りも、吸い込まれそうに魅力的だ。声そのもの、表情付け、動作の一つ一つ、全てに香りがあって、感性のスイートスポットにカツーンとくる。エレガント、キュート、コケティッシュ、チャーミング、ソフィスティケイティド、インテリジェント、、、、と形容詞は幾つも思い浮かぶけれど、どんな言葉も陳腐に思えてしまう。

ネトレプコがパワーで圧倒する「押しの芸」だとすれば、ナタリーは彼女の魅力が人を惹き付ける「引力の芸」と言えるかもしれない。ヤオは、、、ヴィオレッタへの「同化の芸」か。

前向きなヴィオレッタ(ネトレプコ)、薄幸のヴィオレッタ(ヤオ)、素敵で愛さずにいられないヴィオレッタ(デセイ)、三者三様の個性である。(ちょっと短絡的すぎるか・・・)

ナタリー・デセイの魅力は、シルヴィ・ギエムに通じるところがある。この2人は、まさにフランスの誇る人間国宝だ。この2人のステージは見られる限り、何度でも見たい。

ネトレプコがどんなに凄くても、ナタリーの前では、所詮「下町の玉三郎」に思えてしまう。芸のレベルが違いすぎる。うーむ、つい昨日までアンナにネトレプコに入れ込んでいたのに(つまらない駄洒落で失礼)、我ながら心変わりが早いな…。

アンコールは2曲。1曲めは知らない曲だったが、2曲目はルチアだ。これがまた素晴らしい。涙ちょちょぎれる。

d0135403_10204184.jpg終演後、サイン会があった。コンサートが終わるとそそくさと家路を急ぐのが常で、こういう催しには興味が無いのだが、今日だけはナタリーを至近距離で見たくて、会場で一緒になったMさんと列に並んだ(正確には、Mさんにダッシュして並んでいただいた)。


d0135403_10114791.jpg新作CDにナタリーのサインをもらって、気分は上々。このCDにはアンコールのルチア含めて今日の演目がそっくり収録されており、伴奏も同じピド&コンチェルト・ケルン。良い記念になった。





帰り道、地下鉄車両の向かい側座席に、日本人と思われる女性が2名。
 ・ 1人はi-podを聞きながら、おとなしく座っている、、、と思いきや、突然、くわっと目を見開
   き、ニッと歯を剥き出した。かなり異様で、びっくりしましたよ。
 ・ もう1人は英国人(らしき)男性といちゃついており、容姿もさることながら、その媚びた態
   度の醜さは正視に耐えない。どうせなら、もっとカッコ良く。
近年、日本人も自分を魅力的に見せられるようになってきたと思うが、まだまだそうではない人も多いのだ。ナタリーとのあまりの落差にげんなりしてしまった。

かくいう自分自身も、メタボ街道まっしぐら、服装のセンスゼロ、辛辣なことを平気で言う嫌な性格、自分勝手、ととてもじゃないが、他人のことをとやかく言える立場ではない。クールでダンディでちょい悪のA氏を見習わねば・・・。
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by bibinga | 2008-01-26 23:53 |  

コンサート備忘録(キーシン/プロコフィエフ P協奏曲第3番)

d0135403_271096.jpg2008年1月24日(木)  ロイヤル・フェスティヴァル・ホール

ウラディーミル・アシュケナージ指揮
エフゲニ・キーシン(P)
フィルハーモニア管弦楽団

ルーセル バッカスとアリアーヌ組曲第1番
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番
プロコフィエフ 交響曲第6番

ロンドンではキーシンを聴ける機会が多い。ほぼ毎年リサイタルを開くし、協奏曲のソリストとしても良く登場する。私は全部聞いているわけではないが、それでももう6度目になる。これまで聞いてきたキーシンのピアノは、技術の高さには感心するが、なんというか、「魂」が欠けており、どこかうつろに感じることが多かった。

しかし、今日のプロコフィエフ P協奏曲第3番は、、、、圧巻だった!

ピアノを弾く姿はいつもどおり、淡々としていてそっけない。しかし、物凄いテンションの高さを感じる。何かが乗り移っているようだ。出てくる音にもエネルギーが溢れている。キーシンはこの曲と相性が良いのか、それともこの協奏曲は、キーシンに限らず、弾くピアニストをその気にさせてしまう力を持っているのか・・・。

こういうテクニック的にも難しい(だろうと思われる)曲は、「弾くだけでやっと」というピアニストが弾くと聴く方はハラハラして楽しめない。その点、キーシンはいとも簡単そうに弾いてのけ、不安を微塵も感じさせない。全ての音が明瞭。全ての局面においてダイナミクスがきっちりと計算され、完璧にコントロールされている。リズム感も抜群で、ものすごい切れ味だ。そして時折りふっと見せる優しく美しい表情。弱音が本当に美しい。

これだけ見事に弾かれると、恐れ入りました、としゃっぽを脱ぐしかない。そう感じたのは私だけではなかったようだ。会場の大拍手はいつまでも鳴り止まず、キーシンはアンコールを弾いた。
(→プロコの曲なのですが、曲名がわかりません。どなたか会場にいらっしゃった方、ご存知でしたら教えてください。)

キーシンは「ピアノ一筋」なんだろうなぁ、と思う。(あくまでも印象であって、本当のところはどうかわからない) かつてロンドン交響楽団とベートーヴェンのP協奏曲4・5番を弾いたコンサートがあり、その時、リハーサルを見学させてもらった。キーシンは休憩時間中も、一人ステージに残ってずっとピアノを弾いており、その姿に「キーシン-ピアノ=何も残らない」のではないかと思ったものだ。こういう「ピアノの虫」的な部分が、技術は達者だけれど、枠の中に納まっていて今一つ物足りないことと繋がっていたのではないかとも思う。でも、今日の演奏には、なにか今までと違うものがあった。そろそろ脱皮し始めているのかもしれない。

アシュケナージの指揮は、毎度のことながら無骨でアジケナーイ。ポキポキしすぎているし、モノトーンだ。ただ、小細工に陥らず、大きな流れを捉えている点は素晴らしいと思う。彼の指揮を見る度に、指揮棒を左手に突き刺して途中降板した有名な話(その時のオケはN響)を思い出し、大丈夫かと冷や冷やする。今日は指揮棒が刺さることもなく、協奏曲ではキーシンのピアノに負けない緊張感のある伴奏をつけ、プロコの6番では弦楽器からこの曲の深みを十分に伝える悲痛な音色を引き出すことに成功していた。

余談だが、キーシンは、日本人がサインを頼むと、片仮名で「キーシン」と書いてくれる。キーツソになったりしないのは立派。
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by bibinga | 2008-01-24 23:55 |  

コンサート備忘録(アンジェラ・ヒューイット)

d0135403_1162154.jpg2008年1月20日(日) ロイヤル・フェスティヴァル・ホール

Piano) アンジェラ・ヒューイット

バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻

(写真がブレていて申し訳ありません)



アンジェラ・ヒューイットは有名なピアニストであり、ここで紹介するまでもないだろう。

彼女の演奏は、日本に居た頃からCDでよく聴いており、好感を持っていた。ロンドンに来て、何度か生の演奏を聴くにつけ、ますます好きになっていった。

アンジェラのコンサートは人気があり、チケットを取るのは、かなり大変である。ウィグモアホールのリサイタルでは、会員向け先行発売で売り切れてしまうことがほとんど。3000席近いロイヤル・フェスティヴァル・ホールでも、良い席は発売開始とともにどんどん売れていく。今日のコンサートのチケットは昨年の4月1日に取ったものだ。

同行するはずだったAさんは他の予定が入って行けなくなり、リセールをかけたところ、ピアノの先生でもあるRママが引き取ってくださった。早めに取っただけあって絶好のポジションで聴くことができ、Rママにも喜んでいただけたと思う。

この演奏会、心が洗われる素晴らしい演奏会だった!

アンジェラのピアノは、尊大でも威圧的でもなく、歌と慈愛に溢れ、心地良く流れていく。しかし、その根底にある技術は恐ろしいほどの完成度を持っており、ゆるぎのない確信を感じさせる。

冒頭の有名なハ長調のアルペジョ、この出だしでいきなりハートを掴まれてしまった。ごく小さいピアニシモで奏されながら、全ての音は明瞭に聞こえ、しかしレガートで、優しく、聴き手の心に響いてくる。伸びやかで、広がりを持っている。こんなに優美で繊細な平均律は聴いたことがない。

アンジェラの弾くバッハは、かなり自由なバッハだ。テンポもダイナミクスも表情も、かなり変化をつけている。でも、その自由さには節度があり、バッハの様式感を損なうことは決してない。自然で大らかな伸びやかさがあり、品格がある。そして根底には常に暖かさがある。彼女のピアノは、聴き手を幸せな気持ちにさせる。

どこを取っても、本当に良く考え抜かれて、完璧にコントロールされている。プロフェッショナルの演奏である。右手と左手が完全な協調を保っている。巧みな声部の弾き分けと受渡し。信じ難いほどの完成度だ。

d0135403_1022555.jpg今日はFazioliのピアノを弾いていた。Fazioliは数年前にこのホールに入ったようで、2006年10月にニコライ・デミジェンコ(Nikolai Demidenko)がこれを弾いたのが、私の記憶にあるところでは一番古い(それより前からあったのかもしれないが、気に留めていなかった)。明るい音だが、キンキンするところが全くなく、音の調和が素晴らしいピアノである。職人技で作られており、年間数百台しか作られないという。

Fazioliを気に入っているピアニストは多いようで、関本昌平氏も好きだと言っていたし、ロンドンをベースに活躍しているWさんも「Fazioliを一度弾いてすっかりとりこになってしまった。音がハーモニーで響くんですよ。」と言っていた。今日の演奏の、最後の和音のえもいわれぬ美しい響きを聴くと、Fazioliがピアニストを惹き付けるのも頷ける。

アンジェラは、きっと、演奏だけではなく、人格的に素晴らしい人物なのだろう。人間力が演奏ににじみ出ている。今日はロイヤル・フェスティヴァル・ホールが満席だった。ピアノソロでここを満席にするのは凄いことだが、それだけでなく、聴衆の集中力がいつもと全く違っていた。通常、ここの客席はかなりがさつで、ノイズが大きいのだが、今日は、ホール全体がアンジェラのピアノに聴き入っていることが痛いほど感じられた。皆、アンジェラのピアノが好きで聴きに来ているのだ、という感じを強く受けた(前回のリサイタルでも同様の印象を受けた)。

誠実で、真剣で、暖か。歌心。本当に、この人の演奏は、好きにならずにはいられない。

アンジェラは派手さはないけれど、大勢の聴衆から心底愛され、その期待どおり素晴らしい演奏ができる、偉大なピアニストだ。「私のお気に入りピアニスト、ベスト5」を挙げるなら、ソコロフ、ツィメルマン、エマールと並んで、彼女の座は堅い。

RFHを満員にするピアニストは彼女だけではなく、ポリーニも、ランランも、そのくらいの人気を持っているが、会場に詰めかける聴衆の質が、アンジェラの場合は少し違っているように思える。皆、彼女の演奏が好きでたまらない、そういうファンで会場が埋まっているようだ。ソコロフも圧倒的な人気を持っているが、彼の場合は支持層がもっとマニアックで、通受けする。ポリーニは名声で、ランランはミーハー層の支持があって人が集まる。アンジェラは、老若男女問わず、本当に彼女の演奏が大好きな人で会場が埋まるピアニスト、という印象である。

こういうピアニストは他にはあまり知らない。強いて言えば、マリア・ジョアン・ピリスか。いやいや、アンジェラの圧倒的な人気には到底かなうまい(あくまでも、英国においての人気度であるが)。

ひょっとすると将来、アンジェラのようなピアニストになるかもしれない、と思うピアニストが一人いる。アンジェラは人気先行ではなく、裏づけとなる高い技術と音楽性を持っている。このピアニストは、現段階ではそのレベルに到底及ばないが、ポテンシャルはある。今後、どれだけ技術に磨きをかけられるか、そこにかかっている。
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by bibinga | 2008-01-20 23:30 |  

コンサート備忘録(新進気鋭のフルート奏者)

d0135403_12541655.jpg2008年1月19日(土) セント・ローレンス教会 St Lawrence Church, Eastcote, London

Flute) ズュージャ・ヴァモシ=ナジ Zsuzsa Vamosi-Nagy
Piano) 川上敦子 Atsuko Kawakami

C.P.E バッハ ソナタ ニ長調
モーツァルト  アダージョとロンド(コシ・ファン・トゥッテから)
シューベルト  「美しき水車小屋の娘」から3つの歌
タファネル    トマの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」による幻想曲
ヘンデル    ソナタ ホ短調
ハーン     モーツァルトの主題による変奏曲
プーランク   ソナタ

ロンドンの劣悪な地下鉄運行ではよくあることだが、途中駅で30分も待たされ、会場に駆け込んだのはまさに演奏が始まらんとする瞬間だった。滑り込みセーフ、と安堵しながら最後列の椅子に腰を下ろすと同時に、CPEバッハが始まった。

いつも思うことだが、器楽のリサイタルにおいて、曲目の構成はとても重要である。自分が演奏したい曲をただ並べるだけでは、演奏会としてまとまらない。全体の流れ、調和というものが必要である。同時に、ある程度の変化も無ければならない。オープニングに相応しい曲、メインになる曲、その間をつなぐ曲を、長さ・曲想・調性・難易度など、いろいろな要素を考えてバランスよく配置することが大切だ。

今日のリサイタルのプログラムは、とても良く練られていたと思う。CPEバッハのソナタは、幕開けの曲として完璧な選曲であった。教会の雰囲気や響きにぴたりと合い、聴衆の気持ちを朗らかにする。最初のフレーズを聴いた瞬間、「ああ、いい音楽だ、今日、来て良かった」と思った。

ズュージャは、ハンガリー出身で、現在は、英国王立音楽院の大学院にて大御所ウィリアム・ベネットに師事して研鑽を積んでいる。王立音楽院では学費全額免除の特待生、一昨年にはルーマニアの国際コンクールで優勝するなど、腕は確かである(メジャーなコンクールではないと謙遜していたが)。

ズュージャの音色や音楽的なセンスの素晴らしさは、レッスンをつけてもらっているのでよくわかっているが、ステージに立つとさらにパワーアップするから凄い。本番で力を発揮できるのは、一流の演奏家になるための重要な資質の一つであろう。

とにかく低音・中音がものすごく鳴る。牛のように太い鳴りである。あの華奢な体のどこにそんなパワーがあるのかと、驚くばかりだ。大きな音が出せるから、小さな音が生きてくる。表情に変化がつけられる。そして、高音は透明感があって、暖かみを保った美しい音。

全体に重心がきっちりすわっており、音の最初から最後まで息の圧力が持続しているから、音が散漫になることが無い。骨太の芯がびしっと通って、音楽が前に前にと進んでいく。

どの曲もおしなべて見事だったが、一番良かったのは、前半の最後に吹いたタファネルの「リミニ」幻想曲である。超絶技巧の難曲であるが、確信に満ちていた。

曲として興味深かったのは、シューベルト。プログラムに「美しき水車小屋の娘」から、と書いてあるのを見て、ははーん、と思ったが、やはり予想どおり。シューベルトのフルート曲と言えば、「しぼめる花の主題による序奏と変奏曲」という曲が有名なのだが、それではなく、元となった歌曲「しぼめる花」の方をフルートにアレンジして吹いたのである。(「しぼめる花」は、歌曲「美しき水車小屋の娘」の第18曲) 

プーランクのソナタは、数ある古今のフルート曲の中でも非常に重要な曲と言われ、演奏会でしばしば取り上げられる。譜づらは一見それほど難しくなさそうに見えるのに、実際に吹くとなかなか曲にならない。音楽的に内容が濃く、演奏者に対して厳しい要求をつきつけてくる手強い曲だ。ズュージャにして、この曲ではいくつかミスがあったり、コントロールが甘くなった箇所もあった。それほど難しい。しかし、この曲特有の感情の変化を深いレベルで描き分けていたのは、真に素晴らしかったと思う。音の処理や解釈にも新鮮なアプローチが多々あり、非常に勉強になった。師匠、さすがである!

ピアニストは川上さんという日本人で、プログラムの紹介文によると、1989年に毎コンのジュニア部門で1位。東京音大を経て、英国王立音楽院の大学院卒。教会のピアノ(REID-SOHN)がコンサートグランドではなく小型だったせいもあるのか、若干控えめな演奏だったような気もするが、音がぶつ切りにならず、エネルギーが持続しながら面として聴こえてきて、これが音楽のしっかりした構成感につながっていた。音が均質で粒立ちが良い。押さずに、上手に響かせていたように思う。

特筆すべきは、アンサンブルとしての2人の息の合い方。テンポといい、バランスといい、申し分ない。2人とも、とても良い耳を持っているに違いない。

休憩入れて1時間半くらいだっただろうか。かなりたっぷり聴いたが、もっと聴きたいという気持ちだった。アンコール無しだったのが残念・・・。終演後は、楽屋でズュージャと立ち話。そういえば去年の4月末にレッスンしてもらったのが最後で、8ヶ月以上も空いている。近いうちにまた見てもらう約束をして、会場を後にした。家に着いたら、もうズュージ(10時)を回っていた。
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by bibinga | 2008-01-19 23:26 |  

オペラ備忘録(英国ロイヤルオペラ、ネトレプコの椿姫)

d0135403_851364.jpg2008年1月14日(月) ロイヤル・オペラ・ハウス
ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」

マウリツィオ・ベニーニ指揮
リチャード・エア(オリジナル)、パトリック・ヤング(リバイバル)演出

英国ロイヤルオペラ
ヴィオレッタ:アンナ・ネトレプコ
アルフレード:ヨナス・カウフマン
ジョルジョ・ジェルモン:ドミトリ・ホロストフスキー


これだけ素晴らしいものを聴いてしまうと、言葉が無い。

ネトレプコが当代きっての人気歌手であることはわかっている。それが評判倒れではないことも、過去に何度か聴いて知っている。だから、当然、期待はしていた。

しかし、まさかこれほどとは! 大きなサプライズであった。 心底魅了されてしまった。

ラ・トラヴィアータは、とにかくヴィオレッタが歌い続けるオペラだ。1幕でいきなりクライマックスとも言えるコロラトゥーラのアリアがあり、その後もリリックに、ドラマティックに、パセティックに、延々と歌い続ける。これをネトレプコで聴けるというのは、最高の幸せである。

彼女の声には、密度がある。稠密で、レーザービームのようにくっきり浮かび上がって、ビシっと届いてくる。フレーズの息が長い。フォルティシモでは圧倒的な声量が出るが、ソットヴォーチェで歌う繊細な表現も実にうまい。表情がある。吸い込まれてしまう魅力がある。

声は、かなり硬く金属質だと思う。強くて硬いけれど、決してキンキンする嫌味な声ではない。オペラハウスで聴いたら、とても美しく聞こえる声だ。倍音がきれいに揃っているのかもしれない。

息遣いが非常に柔軟。立ち居振る舞いも歌も、全てが魅力的である。ぐわしっと、心を掴まれてしまう。惚れてしまう。

深みがもう一つ? ヴィオレッタにしては強すぎるし、直線的? 確かにそういう面はあるだろう。でも、どうでもいいじゃないか、そんなこと。彼女はまだ若い。歌うのが、そして自分を表現するのが楽しくてしかたがない、そういう生のままの彼女でいいのだ。今のオペラ界に、彼女ほどオペラの楽しさを味わわせてくれる歌手はいまい。年輪を重ねるに連れて、芸風は自然に変わってくるだろう。今は、「今の彼女の」持ち味を、素直に受け止めて楽しめば良いのである。

ヨナス・カウフマンも良かった。1幕は硬直的で声が伸びず本調子ではなかったように思うが、2幕は素晴らしかった。彼は声量を出そうとすると硬くなるようだが、mf~fで歌っているときは実に良い。しなやかで、表情がある。役柄をきっちり捕まえていて、安定しており、とても良かった。

ホロストフキーは良く声が出ていたし、伸びていたが、惜しむらくは、声を押しがちで、直線的で平板。もう少し柔軟性が欲しい。

オケは細かいところがかなり雑だったが、初日でまだ探り合うところがあったのだろう。ベニーニの指揮ぶりは、この曲を完全に掌中に収めており、ところどころでオケはすごく良い音を出していた。これから回を重ねるごとに良くなるに違いない。

今日のオペラのキーワードは「ネトレプコ」。ネトレプコは高い期待をさらに上回る素晴らしい歌唱で聴衆を魅了した。でも、彼女だけでなく、カウフマンもホロストフスキーも立派だった。今日のラ・トラヴィアータは、日本から飛行機に乗ってでも、聴きに来る価値があっただろう。文句なしに★★★(3つが最高)。年が開けてから2度目のオペラであるが、新年早々、このような素晴らしい舞台を堪能できて、幸せである。23日にもう一度、観に行く。
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by bibinga | 2008-01-14 23:33 |  

コンサート備忘録(アンデルシェフスキ)

2007年12月11日(火) クイーン・エリザベス・ホール

ピョートル・アンデルシェフスキ(P)

バッハ パルティータ第2番
シマノフスキ マスク
シューマン フモレスク
バッハ パルティータ第1番


この日のプログラムは、当初はバッハのイギリス組曲3、4、6番のはずであったが、結局すっかり変わって、上記の曲目となった。

アンデルシェフスキは、2004年10月17日にウィグモアホールで聴いて以来、2度目である。彼のCDはほとんど全て持っており、CDで聴く限り、なかなか良い。音が透明で美しく、繊細な表情付けにセンスを感じる。

しかし、3年前にウィグモアホールで聴いた実際の彼の演奏は、CDよりもずっと堅く、好感が持てなかった。そこで、今回、再確認である。

残念ながら、今回の演奏も、やや期待外れに終わった。

本番に弱いのだろうか、、、1曲目のパルティータ2番では、音に切れが無く、伸びてこない。音の空間が狭く、彼とピアノの周囲だけで鳴っているような感じがする。彼はピアノに非常に近く座るが、そのせいだけではなかろう。

強音が堅く、耳に障る。ミスタッチも多い。自分はミスタッチを気にする方ではないが、それでもここまで多いと若干興ざめするのは否めない。

良い点はたくさんある。弱音が美しい。ペダルを使わずに指でレガートを出せる。テンポが遅い楽章でも根底にしっかりしたリズム感があり、だらだらしない。各声部の弾き分けも、何を聞かせたいのかがはっきり見え、知的に構築されている。

音楽の流れはとても自然で、随所に美しい閃きがあり、心に響いてくるものがある。しかし、それが持続せず、どこかぎこちない。

演奏は徐々に良くなり、2曲めのシマノフスキは、濁りの無い純粋な音が曲想によく合っていた。この曲では演奏上の欠点はさほど目立たず、曲に集中できた。

後半、だいぶ堅さがほぐれてきて、音楽が自由に伸縮するようになってきた。特に、最後のパルティータ1番はバッハの様式感をきちんと守りつつ、歌心もある見事な演奏だったと思う。しかし、強音におけるガツンとした堅い音は、最後まで変わらず、この音だけは好きになれない。

アンコールは、なんと、1曲目のパルティータ2番をもう一度弾いた。
「不本意な出来だったので、もう一度弾きます。20分もかかるので、お時間のない方はどうぞお帰りになって。。。」と挨拶をして、弾き始めた。

このアンコールの演奏は、確かに、最初の演奏よりも格段に良かった。空間がずっと広がり、音が生きていた。

彼はとても真面目なのだろう。曲をよく分析し、自分がどういう表現をしたいのか、本当によく考えて演奏している印象を受ける。しかし、おそらく、あまり器用なタイプではないのだろう。高度なテクニックを持っているのに、コンサートでそれを100%発揮するに至っていないような気がする。惜しい。

彼のCDは、どれもとても好きだ。コンサートの後、何枚か聴き直してみたが、本当に澄んだ音で、優しく、自然で、心にすっと入ってくる。
コンサートホールでもこういう音楽を聴かせて欲しいものである。
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by bibinga | 2007-12-11 23:36 |  

オペラ備忘録(英国ロイヤルオペラ、パルジファル)

2007年12月9日(日) ロイヤル・オペラ・ハウス

ワーグナー 舞台神聖祝祭劇「パルジファル」

K.M.グルーバー演出
ハイティンク指揮
英国ロイヤルオペラ
グルネマンツ:ジョン・トムリンソン
アンフォルタス王:ファルク・シュトルックマン
パルジファル:クリストファー・ヴェントリス
クンドリ:ペトラ・ラング


パルジファルを観るのは今回で3度目である。

1度めは1989年、NHKホールにおけるウィーン国立歌劇場の来日公演であった(指揮はホルライザー)。もう18年も前のことで、実はその時が私のオペラ初体験である。

当時、入社5年目の安月給では高額なオペラチケットに手が出せるはずはなく、行けるなどとは全く思ってもみなかったが、親友だったN君のお父上が「招待券があるから、音楽に興味のある君に上げよう」とおっしゃってくださったのである。

中学・高校・大学・社会人とずっとオーケストラでフルートを吹いていた私は、管弦楽のコンサートは時々聴きに行っていたが、歌・オペラにはほとんど関心が無く、知識は皆無だった。しかも初オペラがパルジファルというのはかなり難易度が高いシチュエーションであった。

しかし、初めて観るオペラは非常に面白く、正味4時間半という長大な作品を、食い入るように観た。「歌の上手い/下手は、歌手についての知識が全く無い素人の耳にも何となく分かるものなんだなぁ」と感じたことを覚えている。そしてウィーン国立歌劇場のオケの音色は、音響の良くないNHKホールにおいてすら、実にしっとりとして豊潤で、心底聞き惚れたものだ。N君のお父様に感謝、である。

N君とは中学1年の時、同級生だった。杉並区から中央線を使って通う4人、自然と仲良しグループを結成するようになった。

明るくてちょっと甘えん坊のS君、
頭脳明晰で理科系教科に天才的な閃きを見せるK君、
本の虫でダジャレや子音変換遊びが得意だった私、
そして、皆から信頼され、まとめ役になることが多かったN君。

(子音変換遊びとは、4人のうち誰が考え付いたのか忘れたが、言葉をラ行に置き換えて発音し、元の言葉を類推して当てる遊びである。例えば、「ララレンロウ」→「甘えん坊」、「ルローレリレリ」→「頭脳明晰」といった具合)

私が中2の夏に東北地方に引っ越した後も、友人関係は続き、東京の大学を受験した時にはN君の家に泊めていただいて、お世話になった。N君は京大を受けに行くので、その間彼の部屋が空くから、とご両親から親切なお申し出をいただいたのである。

しかし、その親友だったN君とNHKホールでのパルジファルを、一緒に観ることはできなかった。N君はその4年前、22歳の若さでこの世を去ってしまっていたのである。


2度目のパルジファル、それは割と最近の2004年4月、オーストリアの某地方都市の歌劇場にて。これもまた親友絡みである。

私が初めて海外勤務の辞令を受け、ロンドンの地に降り立ったのは2004年3月15日であった。それから1ヶ月もしない4月9日、イースター4連休を利用してオーストリアに住む親友H君を訪ねたのである。

H君はオーボエ吹きで、かつて私が所属していた大学オケが「惑星」を演奏した時、当時音大生だった彼が、エキストラとしてイングリッシュホルンを吹きに来てくれたのが知り合ったきっかけである。

彼は音大卒業後、しばらく国内でプロとして活動していたが、1980年代後半に当地の歌劇場のオーディションに合格し、以来、20年間、そこでの生活を続けている。日本から手紙のやり取りはたまにしていたが、久しく会っておらず、せっかくロンドンまで来たことだし、ちょっくら会いに行ってみるか、と思って連絡を取ったところ、「丁度その時期パルジファルを吹くから、何が何でも聴きに来い」と言ってくれたのだった。パルジファルはGood Friday(聖金曜日)に起きた奇跡を題材にしており、イースターによく上演される。

1899年設立という由緒ある名門歌劇場の一員として彼が演奏するのを聴いて感慨ひとしおであった。


さて、ようやく、本日の公演についてである。

キャストが素晴らしく、
グルネマンツ:ジョン・トムリンソン
アンフォルタス王:ファルク・シュトルックマン
パルジファル:クリストファー・ヴェントリス
クンドリ:ペトラ・ラング

トムリンソンは最初から最後まで声量があり、張りのある堂々とした声を聴かせてくれ、シュトルックマンもまずまず。ペトラ・ラングは1幕では映えなかったが、2幕の長い見せ場では声と表現に持続力があり、頂点へ向けての盛り上がりに非凡なものがあった。ヴェントリスもつやのある声が遠くまで良く伸びていた。全員が全員、演技も歌唱も非常にレベルが高く、休憩入れて5時間半の長丁場であったが、全くダレることなく、終始緊密な舞台であった。

しかし、歌手もさることながら、本日のハイライトはハイティンクとオケである! ロイヤルオペラのオケは好不調の波が結構あって、ポテンシャルはあるに違いないと思われるのに、雑な演奏にがっかりすることも多い。そのオケが、今日は本当に素晴らしかった!!

ロイヤルオペラは過去3年間に60回は観ていると思うが、オケがこれほど良かったのは、ちょっと記憶にない。明らかにハイティンクの神通力である。オーラが見える。オケの音は、いつもより編成が大きく、非常にパワフル。オペラハウスが震えるような大音量に圧倒されるが、しかし、その音は決してうるさくは感じない。音程も良く合い、美しいアンサンブルであった。隅々まで神経が行き届いた演奏であった。木管、特にフルートの音は澄み切っていて、心が洗われた。いつもなら音を外して興をそぐ金管も、今日は実に良く吹いていたし、何より音が生きていた。

ハイティンクの音楽の大きさ・深さが歌手やオケに浸透し、全員が同じ呼吸をしていたのだろう。これほどまでに説得力に満ち、魂に届く音楽を聴けることは滅多にない。ハイティンク、巨匠である。

私はワグネリアンではないが、パルジファルの音楽には、何か通常の音楽を超えた力を感じ、その深さ・神秘的な響きに心を揺さぶられ、特に幕切れの音楽的高揚には言い知れぬ感動を覚えた。2人の親友への思いも合わさり、言い知れぬ感慨に浸った一夜であった。
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by bibinga | 2007-12-09 23:37 |  

コンサート備忘録(ガッティ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ)

2007/11/30 ロイヤル・フェスティヴァル・ホール

ダニエレ・ガッティ指揮
ヴァディム・レーピン(Vn)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

シューマン マンフレッド序曲
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー 交響曲第5番


ガッティは、大好きな指揮者である。大きなフレーズ感、歌い回しの感性が私のツボにはまっている。この日の演奏も「ガッティ節」全開で大いに楽しませてくれた。

メンデルスゾーンでのレーピンのソロは、ホールの音響がデッドなせいか、音が今ひとつ伸びて来なかったが、細かい音符を一音一音明確に弾き切る技術の冴えはさすがであり、安易に感傷に流れることなく、音楽そのものが持つ美しさを味わわせてくれた。

圧巻はチャイ5。特に第2楽章は素晴らしかった。まず、ホルンを筆頭に管楽器のソロの美しさは特筆もの。そして、ガッティのフレーズの歌わせ方はしなやかで、広がりがあって、音の絨毯がふわりと宙に浮くかのよう。その大きなうねりにいつまでも身を任せていたい、と思いながら聞いていた。

ガッティの音楽作りには一貫性があり、全体を推進する太い骨が通っているように思う。テンポ設定や各楽章の表現も全体の構成を考えて取られているように見受けられ、例えば、1楽章終結部で強調していた金管の刻みが、4楽章冒頭を聞いて、なるほどここにつながるのか、と思わされた。

全般にテンポは快速系であるが、その中で大きなフレーズでのたっぷりとした歌い回しを聞かせてくれ、「音楽の喜び」を楽員や聴衆と共有させる力を持つ指揮者だと思う。欲を言えば、表現や音量をあえて抑えることによって、はっとするような美しさを引き出してくれたらもっと良いのに、と思うことはあるが。。。 (つまり、押すだけでなく、引く美しさである。)

コンセルトヘボウは実に上手い。私見では、オケの技術の高さはベルリンフィルがずば抜けているが、コンセルトヘボウはシカゴと並んでベルリンの次に来るだろう。ウィーンフィルよりも技術的には上手い。(ウィーンにはウィーンの良さがあることは言うまでもないが)

ベルリンフィルの管楽器は、音色の美しさ・透明感、音程・リズムの完璧さ、ダイナミクスの幅広さなど、およそこれ以上は考えられないというほど高度なレベルにある。細い糸1本のような極く極く小さい音量でホルン2本が完璧にハモったり、パユとマイヤーが最新鋭戦闘機が宙を舞うかの如く自在で多彩に吹いたりするのを聞くと、「オーケストラというのはこんなにも凄いことができるのか」と唖然とする。「スーパーカー」的な上手さである。

これに対し、コンセルトヘボウは管も弦も音が柔らかく、各楽器の音が良く溶け合っており、聞いていてしみじみと心地よさを感じる、そういう上手さである。ホルン、ファゴット、クラなどの音色は暖かく、伸びと丸みがあり、いつまでも聞いていたいと思ってしまう。フルートは名手エミリー・ベイノンが吹いていたが、今回は見せ場の少ないプログラムで残念であった。

ガッティはロイヤルフィルを振るときには、表現の振幅は大きいけれども、テンポの設定などでは、オケの能力を考えて無理はしていないのではないかと思う。しかし、コンセルトヘボウはガッティのどんな要求にもピタリと反応できる技術を備えており、この日はガッティも思う存分、納得のいく音楽作りができたのだろう。指揮者とオケのコラボレーションの密度の高さが客席にも伝わってきて、充足感のあるコンサートであった。

近頃私が贔屓にしている指揮者は、ガッティ、ヤンソンス、ハイティンク。

濃くて歌心のあるガッティ、知的で構成力のあるヤンソンス、品格があり端正で引き締まった音楽を作るハイティンク(指揮台に立った時のオーラは巨匠と呼ぶに相応しい!)、と3人の持ち味は全く異なるものの、皆、コンセルトヘボウとつながりが深い。良いオケにして良い指揮者あり、むべなるかな。
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by bibinga | 2007-11-30 23:56 |  

コンサート備忘録(プレトニョフ指揮フィルハーモニア)

2007年11月29日(木)  ロイヤル・フェスティヴァル・ホール

ミハイル・プレトニョフ指揮
ボリス・ギルトバーグ(Pf)
フィルハーモニア管弦楽団

ボロディン 中央アジアの草原にて
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」


もともとは行くつもりの無かったコンサートであるが、東京からロンドンに出張中の方からチケット取得を頼まれ、自分も一緒に行くことにした。美女2名と同行、その時点で◎である(笑)。

ラフマニノフのソロを弾いたのは23歳の若手ピアニスト。ピアノという楽器を「鳴らす」弾き方のように思えた。指使いも時としてハープをかき鳴らすかのよう。鍵盤を叩くことよりも、鍵盤から指を離すことに神経を使っているように見える。

低音にボリューム感があって、底から湧き上がってくるような重心のすわった音がする。反面、高音域ではやや輝きが足りない。オケとはよく噛み合っていた。全般に手堅くまとめていて、地力はしっかりしているが、やや地味であり、もう少し華が欲しいところ。

さて、プレトニョフの新世界である。

極めて作為的な解釈であった。特に第1楽章のテンポはいじりにいじっており、まるで別の曲。冒頭、超スローなテンポで始まり、フルートは通常一息で吹くところを、あまりにも遅いテンポだったので、ケネス・スミスは2度ブレスを取っていた。主部に入ると一転、第1主題は恐ろしく速いテンポで怒涛の驀進。かと思えば、第2主題の手前でがくっとテンポを落とす。テンポの急変にオケがあたふたしながらついて行っている様子は、気の毒にすら思えた。

運命・未完成・新世界、といった「今さら」という曲を演奏するからには、何か違ったものを見せたくなるのはよくわかる。しかし、この解釈はあまりにも奇抜で、音楽の流れが分断されてしまっており、個人的には賛同できない。

我々が固定観念を持ってしまっている曲に、全く違う角度から光をあてて、驚かせてくれる演奏家は凄いと思う。プレトニョフも、こういう解釈を考え付くことができること自体、素晴らしい創造力を持っているのだと思う。問題は、それがいつも成功するとは限らないことであろう。個性的な解釈は興味深いけれど、それが音楽的に説得力を持っていなければ、変わった演奏だね、で終わってしまう。

いつも個性的な解釈で新鮮な驚きを与えてくれ、それがほとんど常に素晴らしい結果につながる演奏家もいる。このあたりは主観の問題なので異論もあろうが、私は、ピアニストではグリゴリー・ソコロフの名を挙げたい。(グールドや指揮者のチェリビダッケ、と言う人は多いだろう。)

片や、あまり突飛な解釈はせず、オーソドックスなアプローチを取りながらも、曲全体の構成を見通した音楽作り、音色の魅力、引き締まった緊張感を通じて感動的な演奏を聞かせる演奏家も多い。例えば、去年だったかハイティンクがロンドン交響楽団でベートーヴェンの交響曲チクルスを振った時、ハイティンクはオーバーなことを何もしないのに、説得力があり、これぞベートーヴェン、という見事な演奏であった。彼が指揮台に立つと、それだけで場の空気が引き締まる。そしてそれは、堅苦しい緊張ではなく、もっと包容力のあるオーラで楽員の集中力を高めているような感じがする。全ての音が確信に満ちている。

...などと書いておきながら言うのもナンであるが、個性的かオーソドックスか、などとタイプ分けをすることには、実はあまり意味は無いと思っている。曲をいじりにいこうがいくまいが、演奏家は演奏を通じて自分の個性を見せていることに変わりは無い。「その演奏家が何を表現したいか」、そして「聴き手がそれをどのように感じるか」、これに尽きる。

プレトニョフの新世界は、彼がやろうとしていることは良くわかったけれど、何故そういう解釈を取らねばならなかったのか、釈然としない。彼は本心から「この曲はかくあるべし」と信じて演奏したのだろうか?

ともあれ、面白い演奏ではあった。気に入るかどうかは別として、新しいものに触れるのは、それはそれで楽しいのである。
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by bibinga | 2007-11-29 23:48 |  

コンサート備忘録(オズボーン)

2007年10月17日(水) クイーン・エリザベス・ホール

スティーヴン・オズボーン(ピアノ)

ドビュッシー 子供の領分
ベートーヴェン ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」
ドビュッシー 前奏曲集第1巻から№5~10
ラフマニノフ 前奏曲集Op32からNo.8~13


オズボーンを生で聴くのは2度目である。前回は2004年12月3日、メシアン「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」全曲をウィグモアホールで聴いたのだった。

のっけから脱線して恐縮であるが、メシアンの20のまなざしは、私がはまってしまった曲の一つである。そのきっかけは、東京で聴いたミシェル・ベロフの演奏であった。演奏会のチラシには、「この曲を聞いた後のあなたは、会場に入る前のあなたとは別人になっているでしょう」という趣旨のベロフのコメントが刷られていたが、暗示に弱いのか、演奏を聴き終わって会場を出た時の私は、確かに衝撃を受け、以前にも増して変人になっていたような気がする。

以来、「まなざし」を生で聴けるチャンスは逃さず聴くようにしており(なにしろドえらい難曲なので滅多に演奏されないのだ)、ベロフ、児玉桃、木村かをり、と聴いてきて、4度目がオズボーンであった。(聴くたびに人間が変わっているかと思うとちょっと怖い) ちなみに来年2月にピエール=ロラン・エマールがロンドンで弾く(@QEH)。

(一部には私のことをメシアン教の信者と誤解している向きもあるようだが、メシアンの中で好きなのはこの曲くらいで、決してメシアン狂ではない)

さて、オズボーンに話を戻す。
オズボーンには正直なところ、あまり期待しておらず、この日のチケットも他のコンサートとの「まとめ買い割引」を得るため、枚数合わせのために買ったのだった。というのも、3年前に彼が弾いたメシアンには、あまり感銘を受けなかったからだ。

ところが、予想に反して、本日のコンサートは、今年聴いたピアノの中でも5指に入る、実に素晴らしい演奏だったのである!

子供の領分の1曲め、「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」。この曲は、クレメンティの退屈な練習曲を嫌々練習する子供の様子をドビュッシーが面白がって描写した、と言われている。

プログラムの解説によると、ドビュッシーはこの曲を弾く演奏者に次のようなアドバイスを与えたという。“not too fast, with a little humour aimed at good old Clementi. Faster and brilliant toward the end.”(もちろんフランス語でしゃべったのだろうが…)

オズボーンはこのドビュッシーのヒントを参考にしたに違いない。

冒頭、聴き慣れたテンポよりずっと遅く、そして厳格に同じテンポを保って弾き始めた。そして、フレーズが一区切りついたところで、首を90度ひねって、客席に向かい、顔をしかめて「ベーッ」と舌を出して見せた! (つまり、「こんなつまらない練習曲、弾いてらんないわ」という少女の様子である)

その後、冒頭のフレーズが再度出てくるところ、ここからが見せ場。冒頭の弾き方からは、テンポも音色もガラッと変わり、ポルシェのアクセルを軽く踏み込んで、音も無くすいーっと加速し、澄み切った夏空の下、高原の道路をスピードを出して爽快に駆け抜けていく。ブリジット・ジョーンズのスカーフも飛んでいく(笑)。「お嬢ちゃん、ね、この曲、こんなに素敵なんだよ!」

そして最後は、テンポが一段と上がって、まばゆいばかりの輝きと喜びに満ちて、バチバチと花火の燭光がはじけるごとく、「さあ見てご覧。ピアノって、こんな力を持っているんだよ」。

あまりの見事な演奏に、出るのはため息ばかりであった。フレーズが出てくる度に全く異なる表情と色で描かれ、しかもそれが全く不自然にならず、「コレしかない」と思わせる。このような解釈をあざといと言って嫌う人もいるかもしれないが、これほどばっちり決まると、ひたすら唸るしかない。

この演奏が決まったのは、オズボーンの演奏技術が非常に高いからであろう。技術のおぼつかない演奏者が真似をしたら、さまにならない。どんなテンポでも完璧にクリアに弾き切る力があり、何色もの音色を弾き分けることのできるタッチのヴァリエーションを持ち、音楽の生き生きとした流れを作れるセンス、ユーモア、そして余裕。

オズボーンがポルシェだから可能なのである。カローラでも時速160キロは出せるかもしれないが、カローラがエンジン能力の極限で全力疾走するのと、ポルシェが鼻歌歌いながら軽く出すのとでは、同じ160キロでもまるで違うのである(と思う、、、ポルシェを運転したことはないので)。

冒頭のほんの2分もかからないような、こんな小さい曲一つを聴いただけで、ああ、今日のコンサートに来てよかった、と満足感にひたったのであった。もちろん、この日の曲目のどれもが、それはそれは素晴らしい演奏だったのは言うまでもない。ピアノのお好きな方、ぜひオズボーンをお聴きあれ。
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by bibinga | 2007-10-17 23:30 |